JOURNAL

■ 06年12月26日(火)

秋の遠足4・青年の城2[柳沢究]

論文モードのエンジンはようやく暖気されてきた感じです。
遠足報告はだいぶ間が空いてしまった。年内完結を目指して駆け足で行こう。


 

左:飛び出した3階部分からピロティに舞い降りる螺旋階段。
  こういうの学生の頃作りたかったんだよなぁ。
右:ちょんぎられた青年のシンボル=「青年の塔」


  

左:トイレ。トップライトに注目。ピンクなのは女子用だから。
中:廊下
右:螺旋の階段室。螺旋の中心の吹き抜け部分に蛍光灯を配したポールが吊られている。
  とっても簡素で経済的なデザインなのだが、実に格好いい。
  のぞき込むとこんな感じ


飛行機のジェット・エンジンを彷彿とさせるエントランス。
脇にはさりげなくあの人が佇む。さすが滋賀。


丸窓に群がり喜々としてカメラのシャッターを連射する一行。ほとんどアイドル撮影会。
職員の方の怪訝な視線も気にせずに。

時代のデザイン傾向をあまりに濃厚に反映しすぎたがゆえ、「青年の城」を眺める目には、昔の記念写真アルバムを開く時のような、ある種の「笑い」がつきまとわざるを得ない。建設から40年も建っていることだし、塔の解体に代表される設計上の破綻も少なからず目に付く。
とはいえ、そのデザインの密度には目を見張るばかりである。時代がかった細部のデザインに目が行きがちであるが、平面計画もとてもよく練られている。
「青年の城」という施設は如何なる建築であるべきかを問い、それに対して、「使い手にまかせます」とかいうスタンスではなく、設計者自らが徹底してデザイン的に答を出していくという姿勢は、(たとえそれが誤答であったとしても)敬意を表してしかるべきものだと思うのである。

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■ 06年12月24日(日)

忘年会2006[柳沢究]

P1010731.jpg

23日、2006年の神楽岡忘年会を恒例のラトナカフェにて開催。
初めての方からお久しぶりの方まで、いろいろ忙しい年末に皆様お集まりいただきありがとうございました。今年は何やら目出度いことも多く。2001年からやってるから今年で神楽岡は6年目というわけですが、さて来年以降どうなっていきますか。

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■ 06年12月04日(月)

秋の遠足3・青年の城[柳沢究]

9:20
近江神宮を出発。寝坊した庭師・水T氏は、二日酔いで完全にグロッキー。僕の運転だと酔って吐きそうだから、自分で運転するとのことで運転手交代。実は僕も二日酔いだったのでありがたい。
途中、石山寺付近に鮒寿司の名店があるとの情報を元に商店街をさまようが、結局発見できず。なんのこっちゃ。

10:40
そうして第二目的地、青年の城に到着。あらかじめ見学の申込みをしていたら、職員の方がわざわざ資料を用意して配ってくれた上に、たいへん丁寧に館内を案内してくれました。

「青年の城」は、「滋賀県希望が丘文化公園」内の一施設である。
頂いた資料(「希望が丘文化公園:建設の記録」滋賀県企画部発行、1976年)によれば、この公園は1968年の京大西山夘三研による報告書「滋賀県における文化公園の構想に関する基本調査研究」に基づいて計画された。東海道新幹線や名神高速の開通などにともない激変しつつある国民の生活様式、それにふさわしい新たなるレクリエーション施設とは如何なるものか、というのがその研究テーマである。報告書では3つの敷地についてケーススタディが行われ、その中から現在の希望が丘地区が選定され、実施に移されたのである。具体的な敷地計画、施設設計は、当時京大助教授であった上田篤の指導のもと、都市科学研究所(中島龍彦)が行っている。竣工は1972年。
以上、基本情報。

青年の城を訪れると、まずはその敷地の広大さに驚く。琵琶湖の東南にある丘陵部の山麓・谷間部に830haにおよぶ広大な敷地が広がっている。すぐ北に東海道新幹線、すぐ南に建設当時は計画中であった名神高速道路が走っており、ここらへんが敷地選定に際して大きな決定要因となったのではと推測される。実際、車であれば大津から30分もかからない。高速を使えば京都からもすぐだ。敷地は山に囲まれ、広大な芝生が文字通り見渡す限り広がっていて、なかなかに贅沢な場所。

 

玄関から入ったホール(と、そこに何故かそびえたつダビデ像)。設計主旨の文章によれば、この2層の吹き抜けとなった線状の空間が「みち」、そこに接続する研修室や宿泊室などの諸室が「いえ」とされ、全体が「まち」に見立てられる。だから照明も街灯風だし、空のように明るいガラス屋根で覆われている。空に浮かんでるロケットみたいなのは、たぶん空調の吹き出し口。

 

左:
この吹き抜けにある、高さ10m近くはあろう巨大な鉄製の防火扉。たとえ法律上防火区画を設けなければならなくとも、決してこの「みち」を塞ぎたくはなかったと見える。制度と強固な意志の衝突から生み落とされる規格外のデザイン。
右:
かつてあった「青年の塔」へと登る入り口。なんだか可愛らしい顔をしている。塔は昨年10月に解体されたばかり。その理由は、老朽化(コンクリートの剥落があったとか)の他に、風で塔が揺れた時の振動がガラス屋根に伝わって、ガラスが割れてしまうことがあったのだとか。

うーん、いかん。この調子で書いてると終わりそうにないぞ。

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■ 06年11月30日(木)

秋の遠足2・近江神宮2[柳沢究]

 

一番下の段にある手水舎と二段目にある旧大津裁判所本館車寄(現在の名前は「自動車清祓所」ということだから、車のお祓いをする場所になっているようだ。車路もそのまま残っている。かつての形態と移転先の事情を融合させた見事なコンバージョンではないか)。
どちらも四隅に3本の柱がL字形に配されているのが目を引く。このような柱の造形は寺社では初めて見た。スケールに比して妙にマッチョな印象はあるが、なかなかに格好よい。


外拝殿の袖部分。モデルは桃子嬢。柱の足下をつなぐ横材(部材名を何と言うんだったか、腰長押?)の高さが、腰をかけるのに丁度よい高さになっている。アンコールワットの窓も似たようなスケールを持っていたが、こういう使い手にフレンドリーなさりげない設計配慮は嬉しいものです。近寄りづらいイメージの寺社建築だとなおさら(ツンデレ効果)。

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■ 06年11月29日(水)

秋の遠足1・近江神宮[柳沢究]

2006年11月26日(日)に決行された、神楽岡秋の遠足(KAE)シガテラ・ツアーの報告です。春秋あわせて6回目の遠足。秋はこれまでの2回とも奈良でしたが、今回は矛先を滋賀に転じました。
さて行く先を検討してみると、意外といっては滋賀の方に怒られますが、見所満載。さしあたり今回は大津近辺と湖東にターゲットを絞りました。

8:00
出町柳に集合。天気は泣きべそ寸前の大曇天。
約一名が寝過ごしたのを除き、皆さんパンクチュアルに集合。今回の参加者は11名。2台の車に分乗し出発。途中、銀閣寺にて寝坊した庭師を拾い、山中越え経由で滋賀をめざす。


8:40

 

滋賀は近い。早くも第一目的地・近江神宮に到着。
近江神宮は皇紀2600年にあわせて造営された近代神社。祭神は大化の改新の立役者にして、飛鳥から近江への遷都を行った天智天皇。なるほど。
設計は明治神宮や平安神宮など近代神社の主要作の多くを手がけた角南隆と谷重雄。琵琶湖に面した山麓斜面を敷地を活かして、境内が階段状に構成されており、階段を上る毎に次の建物の門がせり上がってくるシーンの展開が参拝気分を高める。内拝殿から本殿にかけても同様の段状構成となっているらしいが、残念ながら通常参拝者はそこまでは見られない。
(写真は外拝殿の見上げと、外拝殿から内拝殿とその先の本殿を見る)


とはいえ外拝殿と内拝殿の間にある中庭も、宗教的空間として興味深い。
四方を建築に囲まれその奥に山を臨むこの空白地は(何らかの儀式に使われるという機能的な側面もあるだろうにせよ)、山中他界観的な聖地の原型を思い起こさせる。くだけて言えば、ここから天に向かって昇ってしまうような(あるいは、山の上から何かが降り立ってきそうな)垂直性を感じさせる場所、ということだ。中庭から一段と上がった内拝殿とさらに奥へと上がる登廊が、その感覚を煽る。周囲の廻廊は山中の木々の建築化と見なせよう。このような中庭をもった神社が他にあるかは詳しくないが、実に意識的に構成された聖性の演出手法である(ソーラーパネル付きの照明はご愛嬌)。
単に白川砂を敷き詰めただけの何もないスペースでも、こうすれば場に力が宿る。先だって見た龍吟庵の「無の庭」と比較すると面白い。

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■ 06年11月25日(土)

龍吟庵の裏[柳沢究]


龍吟庵の裏手の山の方には、手水鉢や石臼が野ざらしで山積みされていました。物供養の一種でしょうか。手水にたまった雨水に水草が群生して、いとをかし。一個くらい分けてくれないだろうか。

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■ 06年11月20日(月)

ミテキテツクッテ伏見稲荷[柳沢究]

18・19日:
京都CDLのミテキテツクッテ・伏見稲荷学区編開催。
昨年と同じくフル参加で、伏見稲荷の街を歩き、設計ワークショップで作品をつくり、翌日は審査員としても参加。去年の敷地である粟田口に比べると、伏見稲荷の街には飛び抜けた面白さは少ないが、それでもじっくり歩き読みんでみると、微地形への対応や道の形などに地区独特の特徴が見えてくるのが面白い。思わず声をあげてしまうような面白い住宅も発見した。
準備したみなさん、ほとんど手伝えなくて申し訳なかったですが、お疲れ様でした。

↑は、もんのすごく狭い路地の最奥部に佇むローテク半透明住宅。「何かきれいでオサレじゃん」とか抽象的な「透明性」とかいったものではなく、物理的な明るさへの切実な想いから(実に切実な)、可能な限りの透明性を追求している。
透明な建築ってほんとはこういう薄暗い場所にこそ必要なのでは?と考えさせられてしまう(ちなみに中を覗くと洗濯物が干してありました)。

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■ 06年11月19日(日)

スペインの日本人建築家[柳沢究]

13日:
後輩の長野君と手がけていた祇園のお店がオープン。四条花見小路の「祇園 ゑん」というお店。豚しゃぶがメインの日本料理店。お酒も美味しいです。

15日:
芸工大大学院にて、スペイン公認建築家・鈴木裕一さんによる特別講義。ヌーヴェルやサンチャゴ・カラトラヴァ、エリアス・トーレス、伊東豊雄など、最近めっぽう熱いスペインの現代建築事情について。伊東豊雄の巻き貝は、設計に現地の技術が追いつかないため、現在工事が中断されている由。スペインの荒涼とした平野に佇む巻き貝の写真がえらくシュール。鈴木さんは石山修武のダムダンにてセルフビルドの修行をして、その後単身スペインに留学、そのまま住み着いて事務所を開設し、スペインでアーキテクトビルダーの実践をしているという。うーん・・・

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■ 06年11月17日(金)

龍吟庵[柳沢究]

映画の帰りに、東福寺・龍吟庵の特別拝観に寄った。
重森三玲の庭が3つある。

  


「龍の庭」は、庭にしては実にわかりやすい庭なんだけど、よく見ていると石の形や配置・砂利の黒/白のバランスなどに緊張感が感じられて面白い。
「無の庭」には疑問符。何も無い庭はそれはそれでよいのだが、手前がからっぽの分、背景の漆喰壁がやけに目立って白々しいのが気になる。
「赤の庭」は文字通りイロモノの感はあるが、雨に濡れた赤い石の色と銅版の屋根や植物の緑色とのコントラストが綺麗で、個人的には一番お気に入り。何故赤なのか分からないが、他の2つの庭もあわせて、重森三玲の実験精神は存分に感じられる。

庭に気をとられてしまいがちであるが、建物の方もなかなかに見応えがある。たしか現存最古の方丈だったはずだ。骨太の構造と、線の細い蔀戸や一本筋の障子などの繊細な組み合わせが綺麗。

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■ 06年11月16日(木)

ヨコハマメリー[柳沢究]

先週末のことだが、みなみ会館にて「ヨコハマメリー」を見た。

高校まで横浜で暮らしていたので、中学校の頃に(伊勢佐木町に遊びに行きだす年頃だ)ごくたまにメリーさんのことが話題に上っていたことは覚えている。ホワイトオバケとか白い婆さんとか呼ばれていたように思う。僕自身も関内あたりの洋館を背景に一度だけ目撃したような記憶があるが、実体験なのか後から捏造されたものなのか判然としない。

様々な証言(舞踏家・大野慶人の振り付きの証言がとりわけ印象的だった)と切り取られた町の風景を織り交ぜ、実態の見えない伝説的存在を、様々な角度から照射し浮き彫りにしていく。そのようなドキュメンタリーの手法は、音声と映像が一体になった映画作品に最もふさわしい手法に思われる。結びそうでなかなか結ばない焦点が、最後になって意外にも当たり前のように結ばれた時、意外にも涙が出た。泣くような映画じゃないと思って見てたんだけれど。これはとっても予期せぬことで、しばらく何故泣いたのか考え込んでしまった。

それはさておき、この映画をみれば誰もがわかるように、これはメリーさん個人を追った映画ではなく、メリーさんが存在したとある時代のとある都市の姿を描いたものだ。メリーさんは、ある時代の横浜という都市の記憶を体現した、一つの現象なんだろう。都市は人が生きてこそ都市なのだという、至極当たり前の事実をあらためて噛みしめる。

僕らが研究対象として都市を扱う時、個々人のライフヒストリーといったあまりに儚いものは捨象せざるをえず、物理的な「形」としてそこにある建物とか道、あるいは史料を通じて都市を見る。文化人類学的アプローチはだいぶん生活にクローズするが、対象としているのはやはりある程度一般化された集団的な人間像であり、個人への接近には限界があるだろう。しかし実のところ都市は、そのような捉えがたい個々人の記憶においてこそ生きられているのであり、そのことを忘れた都市論は虚しい(『京都げのむ』の連載・「京都私的探求」で試みていたのは、そのようなごく個人的眼差しからの京都の発掘であった)。

横浜が懐かしくなると同時に、ヴァーラーナシーの雑踏が思い起こされた。インドにはたぶん、まだ沢山のメリーさんがいる。もちろん京都にも。

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