JOURNAL

■ 05年12月01日(木)

京都ゲノムを探して[柳沢究]

10月に京都新聞に寄稿したコラム。「げのむ」編集長としての執筆だけど、まあ京都のことだし、あんまり眠らせとくのもなんなのでここに載せてみる。字数が少ないのでちょっと説明不足の観もありますが、「京都げのむ」の「京都」に対する姿勢の一端はこんな感じです(そんな「げのむ」に興味を持たれた方は、ぜひご一読を。既刊はこちらで販売中!)。


『京都ゲノムを探して』

京都に関心をもつ大学研究室・学生が集まり京都のまちを調査し提案する、京都コミュニティーデザインリーグ(京都CDL)の活動がはじまってから4年半が経つ。この間、機関誌である「京都げのむ」の編集・制作を通して、京都という都市のあり方をいろいろな視点から眺める機会を得た。京都の価値をアンケートに基づき金額に換算したり、京都のモデルとされる中国・西安の現状を取り上げるなど、様々な角度から京都をとらえなおす記事に取り組みつつ、「げのむ」は現在まで5号が刊行されている。

京都CDLが発足当初から掲げている活動理念の一つは、保存か開発か、あるいは歴史的文化・伝統を如何に現代に活かすか、といった定式化された構図から京都をとらえるのではなく、都市の現場に身を置きながら、ありのままの京都を観察しようというものである。「京都げのむ」という誌名にはそのような活動を通じ、京都を京都たらしめている遺伝子=《京都ゲノム》を探しあてたい、という願いが込められている。

「何が京都を京都たらしめているのか」という問いは、京都でよく耳にする「京都らしさ」論と密接に関わってくる。町家の格子戸や大文字は「京都らしい」と言われるが、京都ホテルなどに見られる格子状のデザインやマンションのエントランスにちょこんと乗せられた瓦屋根は「京都らしい」のか。南区に数多くあるリサイクル工場や山科の山中に隠れた巨大な産業廃棄物処理場は「京都らしくない」とされるが、それらがあるからこそ京都の生活は成り立っているのではないのか。夏の鴨川を彩る床は「京都らしい」が、橋の下にたたずむ段ボールハウスは「京都らしくない」のだろうか。

答の無い問いのようにも思われたが、実はいずれも京都という都市のある一側面を表象しているという事実に違いはない。身も蓋もないようだが、その意味では全てが「京都らしい」と言ってしまえるのではないか、別の言い方をすれば「京都らしい云々」という言葉は(少なくとも京都においては)ものの価値についてほとんど何も説明していないのではないか、というのがこの数年間で得た一つの確信である。

とはいえ《京都ゲノム》を探し求める試みが意味を失うわけではない。京都を見つめる視線から、ようやく「らしさ」というフィルターを取り外すことができたのだと考えたい。「京都らしさ」とはきわめて主観的な概念であり、「らしくない」とされたものを無意識に視界の外へと追いやる危うさをもはらんでいるのだから。誤解を恐れずに言えば、京都は特別な都市なんかではない。歴史とか伝統の毛がちょっと生えた程度の普通の都市。そう考えたときに初めてありのままの京都の姿を、そこにある生活を垣間見る事ができるように思う。

現在編集中の「げのむ」第6号では、「みやこきわめぐり」と題して中心部から外れた様々な境界的領域に注目している。碁盤の目の中だけが京都ではない。町家が軒を連ねた景観は確かに美しいが、観光客が足を踏み入れない場所に広がるいびつな路地、違法建築スレスレに好き勝手な増改築を施された建築群は、おとらず魅力的である。京都ゲノムは「青い鳥」よろしく、身近な街のそこかしこに隠れているに違いない。

(2005/10/24 京都新聞「創発空間」)


…作品に町家再生を連ねてる神楽岡の活動はどうなんだ、という意見が予測されるので、あらかじめ補足しておくが、神楽岡の活動とこの考え方とは決して矛盾するものではない。京都にある伝統や文化のよさを否定したいわけではなく、言いたいのは、何かの縁で京都に腰を据えて活動している以上、「京都らしい」という非常に様式化された視点のみで京都を見つめるのは、たいへん視野の狭いもったいないことではないか、ということ。


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