JOURNAL

■ 06年06月21日(水)

京都げのむ6号 ついに発刊![柳沢究]


↑ブルーが眩しい6号の表紙。完成が遅れた結果、期せずして初夏にふさわしいものに…

今月上旬「京都げのむ」第6号が、長い長い編集作業の果てに、やっとようやくついにとうとう満を持して、完成しました。

限られた人数の中でなんとか中身の濃いものを作ろうと、約9ヶ月にわたるフィールドワークと試行錯誤の編集を繰り返した結果、発行が当初の予定よりも大幅に遅れてしまい、たいへんお待たせしてしまいました。
しかしながら1〜5号までの経験を活かし、これまでになく密度の高い一冊に仕上がったのではと思っています。

書店に並ぶのはもう少し後になりますが、それまでの間こちらのサイトで少しずつ内容紹介をしていきます。興味をもった方は、是非ご購入を!(ネット販売はもう開始しています→購入フォーム

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■ 06年06月17日(土)

春の遠足4 後楽園と流店[柳沢究]

遠足ラストは後楽園とその中の流店。

 

曲水宴の建築化といえばそれらしいが、要は、建物の中に川流しちゃえという、なんともお大名らしい単純極まりない子供じみた思いつきを、実際にやってしまうことの偉大さ。素直な発想がこんなにも清々しいものを生むのかと驚いてしまう。「流店」という名前もいい。リュウテン。

ところで、このような実際に住んだり使ったりできない建築を、短い訪問時間の間に味わうには、少し想像力がいる。たぶんそれは人それぞれにやり方があるんだろうけど、僕の場合は、月夜の晩にここで酒を飲んだら…というのと、ここで人目を忍ぶ逢瀬を待ったら…という二つのイメージ(妄想)を思い描くことが多い。これをやると、建築をググっと自分の体に引き寄せて感じることができるのです。ぜひお試しを。

そんなこんなで後楽園に日は暮れて、岡山を後に。
帰京後は京大近くの中華料理で打ち上げして解散。とても充実した、実に遠足らしい遠足となったのでした。

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■ 06年06月16日(金)

春の遠足3 吉備津神社[柳沢究]

遠足もそろそろまとめてしまおう。

3つ目は吉備津神社。あいにくと数年にわたる屋根の檜皮葺替え工事中で、本殿には覆いがかけられていたけれど、事前にお願いして現場の中を見せてもらった。これまた貴重な体験である。
吉備津神社は外観からして大艦巨砲の戦艦っぽく、ガンダム心がくすぐられるものがあったが、覆いの内部はまさに兵器製造ドックの趣き(実際に修理ドックなんだけど)。

 

「檜皮がないようだが…」
「あんなの飾りです!偉い人にはそれがわからんのですよ!」

いやいや…


ちょっと真面目な話もしておこう。
吉備津神社の構造形式(比翼入母屋造あるいは吉備津造と呼ばれる)は他に比類のない独特の形状ということだが、何故この形状が生まれたのかというのは、手元の文献を見てみてもよくわからない。
本殿の平面は、三間社流造(下鴨神社のような形で、最も一般的な神社建築様式の一つ)の内陣・内々陣の周囲に、庇が二重にまわった入れ子状の構成をしている。
これを素直に立ち上げ屋根をかけると、やや庇の長い入母屋になると思うのだが、ここでは何故か棟が前後に細胞分裂している。双子だ(奥の棟は内々陣、手前の棟は朱の壇の上部にあるようだから、両者を同等に扱おうとしたのかという想像もできるが、さらにその前方に拝殿がズコーンとくっついてくると、もうよくわからない)。
断面は断面で、拝殿から奥にすすむにつれ床が上がり、その最上段に内々陣があるという、まことにヒエラルキカルな構成をもつ。
つまり吉備津神社は、平面は入れ子状、断面は階段状、そして立面(屋根)は双子の同形並置、というそれぞれ異なった構成原理を組み合わせて空間がつくられているという、何とも不思議な建築なのだなぁ。


檜皮葺き替えの様子。数年かけて材料を調達しながら直していくというのは、あらためて考えると凄いことである。


ガンダムで思い出したけど、岡山にはとんでもないモノがあったようだ。事前に知っていたら絶対遠足に組み込んだのに、残念。
制作者のインタビュー(←インタビュアーの質問が妙にマニアックで面白い)

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■ 06年06月15日(木)

庭師の訪欧記[柳沢究]

少し前からこっそりと右側の「リンク」欄に追加しておいたのだけど、神楽岡の某庭師が、現在ワールドカップ&観光でヨーロッパに出かけており、旅先からのブログを立ち上げている。
現在イギリス。なんだか優雅な旅のようでいて、早くもヨーロッパに飽きてきている様子… 先は長いぞ。

>> 庭師の訪欧記

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■ 06年06月12日(月)

文化財の修理報告書[井上大藏]

ここ数日、文化財の修理報告書に目を通しているけど、マニアックな世界だとつくづく感じる。

人によっては、修理報告書その物を目にする事も少ないし、目撃してもA4版で厚さ2cmもあれば読む気が失せるだろう。そもそも、建築の分野を基礎的に知っておかないと理解に苦しむ事になる。それでも僕が「読みたいな」と思う理由は、「綺麗に改修される前の段階を知る事で、(学問ではなくて)当時の現場での修理実態や思想を読み取りたい」と思うからである。

民家園などに赴くと、報告書を販売している事がよくある。いい値段することもあるし、時には何で?と思う位にギョっとする場合すらある。専門者向けの物を用意する事は学問として必要だけど、民家園は博物館だから300円〜500円程度で、一般の人でも理解できるような修理の解説冊子みたいな物があってもいいと思うのだが、これが無い。報告書を冊子レベルで作ると、以外に売れるような気がするが、如何だろうか。

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■ 06年06月07日(水)

生い立ちと文化[井上大藏]

少々、私の生い立ちを。
私は、生まれてこの方、三十数年間ずっと京都に住んできた。そこに両親がいて、他府県への引越しが無かったから、少なくとも高校卒業までは、自然に任せてと言えるだろう。自宅から徒歩5分程度に銀閣寺があり、大文字の送り火を見る事は何でもない毎年の出来事だった。水路閣がある南禅寺は沢蟹取りの名所であったし、平安神宮や北野天満宮は「神社って、こういうのが普通だ」というようなイメージがあった。人物との関わりでは、小学校の同級生に林屋辰三郎氏と養子縁組関係を持った者がいる。母方の実家は、南区羅生門町。そう、平安京の羅生門のあった場所。父方の実家は麩屋町二条。これは京都市役所の北側で、京町家の仕舞屋。これが私にとっては、自然の環境。ごく普通の事。しかし、これを話すとき、一方では妬まれる事もある。『文化が傍にあっていいね』と。

歴史好き・考古好きが転じて建築にきた。建築で伝統に興味を持った時、京都が特異な存在である事を再認識する事になった。一般論として"日本で伝統文化のあることろ”と問えば、やはり京都や奈良と言われるだろう。私個人の感想を言えば、"日々伝統文化に接して小学校時代を過ごしていました”と言うのは苦笑いでしかない。それ程、自然の事でした。

文化や文化財制度に接して、理解すればする程、際立って京都・奈良や東京が特別視されている事がわかります。これは、文化財の指定件数という数値によっても表現できるし、指定制度においても同様なのです。これらの思考は、『文化財学』という学問に類しています。関東で生まれた学問です。これを少しかじりつつ、大阪・泉佐野の物件や福岡・北九州の文化財古材の話、岡山の古民家の制度の話へと展開されています。

ここ数日のジャーナル文章で、私の寸足らずな表現が要らぬ誤解を生んだようで申し訳ない気持ちで一杯です。大建築界の、小さな文化財分野の、隅っこで展開されている話の一端と捕らえて頂ければ幸いです。

おまけですが・・・
私は、文化財の制度や応用に関しては、「京都だからできる事と、京都だからできない事」の2つが常に存在してると考えています。

文化や文化財の制度を創設するのは、京都(奈良・東京)の方が作りやすいでしょう。理由付けができますから。しかしそれを応用する段階になると、京都では伝統のイメージが付き過ぎていて難しい。
私が、北九州の文化財古材についての展開を契機と考える理由は、“京都だからできない事”故なのです。

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■ 06年06月06日(火)

6/25のスライド会[柳沢究]

今月のスライド会には、建築家+左官屋=森田一弥氏が久々の登場です。
森田氏がつい先月訪れた、モロッコはマラケシュでの熱い体験を数々のスライドともにお話いただきます。

■日時:
2006年6月25日(日)19:00〜

■テーマ:
「モロッコの左官職人 〜石で磨くマラケシュの漆喰技術〜」


詳しくはWhat's NEWをご覧下さい。

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■ 06年06月05日(月)

今日は制度的な話[井上大藏]

今日は制度的な話。

指定の制度は、単純な様で複雑です。文化庁での審議会を経て、審議結果を文部科学大臣に答申し、官報による告示で指定が完了する。構図としては単純なのだが、実は審議会に上るまでが大変なのだ。例えば"確認申請を行う”時と同じような話である。施主と話し、工務店と打ち合わせ、行政と摺り合わせて『これでいけるだろうという状態』の上で確認を出す。同じように、建物を実地調査し、近郊において類似した項目の指定物件が無い事を確認し、建物においての特異性を建築学的に評価して文章化し、附帯資料を収集し、所有者の同意を得つつ、都道府県の担当部署や市町村などの地域行政と連携した歩調で、中央官庁と打ち合わせる。その中で、『これでいけるだろうという状態』になった時、審議会に挙げるのだ。
これらを一度に同時に行う事は難しい。だから、まず都道府県や市町村の文化財に指定し、『都道府県等の指定文化財』である事実を基礎にして、中央の審議会に挙げる。これを、指定者が変更される為 都道府県 → 国 への「指定替え」と言う。

今回の旧大国家住宅は、この「指定替え」により、国の重要文化財になった建物である。
実地見学による平面構成の複雑さや細部の造作が痕跡などが目視できる事、文献や家相図等の基礎資料の多くが残存している事、更にはこの家の先祖が該当地方において名の通った画家である事なども大事な情報の一部です。これらの情報+報告書により審議・指定されているのは大前提です。

建物を"文化財”にする制度はこれで十分です。
が、しかし今、問題視されているのは、指定後の運用と維持そのものです。

調査を行い、審査の後に指定される。このプロセスには問題はありません。
一方で、文化財の調査と審議は、その関連する方々の立場によっては、単に行政手続の1段階でしかない場合もあります。これも行政的には問題ないでしょう。手続きは段取りです。

今回、旧大国家住宅は未修繕の段階での見学でした。私は、未修繕の文化財指定の家をいくつも見ています。中には民家園に移築されたはいいけれど、その後の手入れが無い物すらあります。報告書を作り、頑張って指定にまで持ち上げた物件です。さればこそ、(如何なる再生法を採用するかはさておき)放置せざる得ない現状を芳しく思わない人の感情は少なくないと察しがつきます。
一方で、昨今の社会は、文化財の保存と活用を試行錯誤して方法を見出そうとする動きもあります。

私が記しておきたいのは、指定後の運用と維持が後に行政に委ねられる事が前提(乃至は推測されやすい)の場合その方策を事前に練り上げておく必要があるのではないか・・・という事であり、活用と維持の方策を盛り込んだ指定制度のあり方を検討する事が必要ではないかと言う事です。

その中で、建物としての特徴を文化財として表現できるならば御の字だと思います。

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■ 06年06月02日(金)

旧大國家住宅について・追記[柳沢究]

なるほど文化財指定にもいろいろ大変な裏側があるようで。
事情はよく知らないけれど、仮にお金が目的で国指定にしたのだとしても、文化財を維持・管理していくためにコストがかかるのは当然のことであって、指定のプロセスにどこぞの審査のような不正や問題がない限りは、少しも非難されるべきものではないですよね。


ところで、旧大國家住宅が文化財として認められた理由というのは、調査報告書によれば、(1) 比翼入母屋造という極めて特殊な屋根形状をもつこと、(2) 創建以来たびたび行われた増改築の経緯を示す資料が豊富に残っていること、の2点である。

(1)の単に他に例を見ない特殊な造形だけでは、珍しいね、というだけで、あまり意味がない。保存や調査に値するとすれば、その特殊な造形がもの凄く魅力的な空間を生んでいるか、あるいは、その特殊性が形成されるに至ったプロセスから一定の一般性を持った知見(当時の社会状況や建築技術、住宅観など)が導き出せる/出せそうな場合のどちらかである。大國家の場合、この点を(2)が保証している。

大國家の空間的魅力に関しては、悪くはないがそれほどでもない、というのが正直なところ。民家としてのプリミティブさであれば箱木千年家に及ばないし、柱梁架構の美しさ・迫力では吉島家日下部家が勝る。
しかし大國家が面白いのは、たび重なる増改築の結果、内部空間がえらく込み入っている点だ。比翼入母屋造という非常に複雑で象徴的な屋根をわざわざ作っているくせに、屋根形状と内部構成が全然対応しておらず、柱があるべきところに無かったり、台形に歪んだ部屋があったりする。母屋の隣にある蔵座敷の一階は、細かに仕切られた部屋が複雑に組み合わされ、まるで畳の迷路空間である。一体何を考えてこんな家をつくったのか、理解に苦しむほどに錯綜している。
大國家の増改築が、当時盛んに信奉されていた「家相」に大きく影響されていることは分かっており、方位等を書き込んだ増改築計画図面が何枚も残されている。しかし前近代の建築を機能性だけで説明することができないのと同じく、実際に住まわれる住居の空間を「家相」だけで読み解くのは現実的ではないだろう。今後、残された資料により詳細な検討が加えられれば、これまでにない当時の住居観や生活像が見えてきそうである。

昔は一軒の家を建てたら、火事で燃えたり地震で崩れてしまわない限り、時々の要求に応えるための増改築を重ねながら、何代にもわたり執念深く住みこなしてきたと考えられる。大国家はその痕跡を今に残す希少な事例という点で、価値ある「文化財」なのだ。
そもそも建築とはそのように増改築されながら使われ続けるものである(かどうか)、という議論はひとまず置いておくとしても、時代を経て複数の人間の手が加えられてきた建築の方が、ある時代に一人の人間が考え完成させた建築よりも、時に魅力的であることはよくある話。新築が難しくなり、今すでにある建物を如何に使うかがテーマになりつつある時代において、旧大國家住宅はなかなか示唆に富む建築ではないかと思うのである。

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