JOURNAL
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■ 06年10月15日(日)

栗原邸(旧鶴巻邸)・その2[柳沢究]

旧鶴巻邸の屋上には、こんな干からびた方がいました。

 

尻尾が切れているので最初はトカゲかな、と思いましたが、このふくよかなお腹と首のくびれ、指の感じからするとヤモリちゃんに間違いない。私はヤモリが大好きです。
カメラのホワイトバランスを間違えて電球仕様に設定していたため、妙に幻想的な写真になりました。
(※ は虫類が嫌いな人は注意→トカゲヤモリの比較)

ひょっとしたら次回の公開(10/28)にも、まだ居るかもしれません。
階段から屋上に出たすぐの足下です。踏みつぶさないように注意。

前の道にはカタツムリのなる木がありました。一本の木に数え切れないほどのマイマイがうじゃうじゃと。樹液を吸っているのか、木の節のあたりにへばりついているので、幹の一部かと間違えそうになるます。久々に蝸牛を見たなぁ。

そんな自然豊かな(?)場所にある旧鶴巻邸、次の特別公開は10月28日(要・申込み)です。

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■ 06年10月14日(土)

栗原邸(旧鶴巻邸)・その1[柳沢究]

10日の井上さんの案内にもあった、近代化遺産の全国一斉公開の一環である「栗原邸(旧鶴巻邸)」の一般公開に行ってきました(10月7日)。
設計は本野精吾、1929年竣工(サヴォア邸と同年)。
「中村鎮式コンクリートブロック」と呼ばれるL字形のブロックを組み上げ、その中にコンクリートを充填するという構法でつくられている。外観は装飾も少なく、一見ごく普通のコンクリートブロック造に見えるが、藤森照信によれば、コンクリートをそのまま見せて仕上げに用いた建築としては世界的にみても最も初期の部類に入るものとのこと。

.1  .2 

1. アプローチ。写真がうまく撮れなかったけれど、前庭とアプローチがとてもよい。砂利敷きの上に点々と植物が生え、庭木をかいくぐるようにして、ポーチに到達。

2. 外観のアクセントとなる玄関ポーチ。ビシャンで仕上げられたコンクリートの円柱は大理石にも負けてないぞ。

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3. 写真.2の中。室内の天井から連続する薄い庇、網戸のはいったスチール・サッシュ、雨上がりの陽が差し込む室内。とてもモダーンな雰囲気。
ただし、この部屋の窓を除けば内部はかなり古典的な雰囲気。インテリアはかなり傷んではいるもののほとんど改装がされておらず、往年の雰囲気がほぼそのまま残っていると思われる。しかし戦後、進駐軍にしばらく接収されていたらしく、台所や洗面所は汚くにペンキで塗られていたりする。うーんアメリカ人はペンキ好きだなぁ。

4. 開口部まわり、戸袋のディテール。


少し不思議に感じたのは、京都高等工芸学校(現・京都工繊大)の学長であったという施主が、1929(昭和4)年という時期に、疎水沿いとはいえ何故こんな奥まった不便な(失礼!)敷地を選んだのかという点。当時であれば、市街周辺にはまだまだ土地が残っていただろうに。山科から松ヶ崎は結構遠いぞ。車で通ってたのかな。

・・・というようなことを考えながら、でも当時は松ヶ崎ではなかったのかもしれないぞ、と思い調べてみたら、昭和5年まで京都高等工芸学校は左京区吉田、京大の西側にあったらしい。(「当時、京大と高等工芸の間は狭い道で、その上を樹がうっそうと繁って、昼でも薄暗い所であった」という。この「狭い道」とは現・東大路通り)。
しかも、さらにその西には京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸大)があったとは知らなかった。立命館も寺町広小路(現在の京都府立医大の場所)にあったのだから、寺町今出川の同志社とあわせれば、今出川界隈はまさに大・学生街だったというわけだ。うーむ。

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■ 06年10月03日(火)

論文副作用[柳沢究]

ついに10月から論文執筆を生活の「中心」にすえることを決意したのであるが、そうと決めた途端、それ以外の仕事ばかりが異様にはかどりだすのは、いつものことながら、困ったものである。このJOURNALがいきなり更新されたのもまた、その余波に他ならない。しばらく後にまたも更新が途絶えたなら、ああ論文に集中し始めたんだなと温かく見守って頂ければ幸いである。
とりあえず昨日は机の上を論文仕様に片付け、今日は参考文献を脇に平積みにした。明日はそのページを開くはずである。
文献を横目に、大学の諸業務をしつつ、コーラムの国際会議の件であちこちにメールを送り、SSSの開口部まわりの大見積もりを仕上げ、科研費(!)の申請説明会に出席していたら、休憩を一度も入れないままあっという間に晩。
論文逃避作用による諸業務能率化の効力は、実に端倪すべからざるものがある。

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■ 06年09月07日(木)

ヒツジをこなしているウワバミの図[柳沢究]

『星の王子さま』の冒頭に、「ゾウをこなしているウワバミ」を描いた有名な挿絵がある。しかし、あの詩情豊かな絵が現実の情景として展開されると、まさかこんなことになろうとは…


>> ヒツジをこなしているウワバミの図


あまりの図像に思わず更新。

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■ 06年06月17日(土)

春の遠足4 後楽園と流店[柳沢究]

遠足ラストは後楽園とその中の流店。

 

曲水宴の建築化といえばそれらしいが、要は、建物の中に川流しちゃえという、なんともお大名らしい単純極まりない子供じみた思いつきを、実際にやってしまうことの偉大さ。素直な発想がこんなにも清々しいものを生むのかと驚いてしまう。「流店」という名前もいい。リュウテン。

ところで、このような実際に住んだり使ったりできない建築を、短い訪問時間の間に味わうには、少し想像力がいる。たぶんそれは人それぞれにやり方があるんだろうけど、僕の場合は、月夜の晩にここで酒を飲んだら…というのと、ここで人目を忍ぶ逢瀬を待ったら…という二つのイメージ(妄想)を思い描くことが多い。これをやると、建築をググっと自分の体に引き寄せて感じることができるのです。ぜひお試しを。

そんなこんなで後楽園に日は暮れて、岡山を後に。
帰京後は京大近くの中華料理で打ち上げして解散。とても充実した、実に遠足らしい遠足となったのでした。

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■ 06年06月16日(金)

春の遠足3 吉備津神社[柳沢究]

遠足もそろそろまとめてしまおう。

3つ目は吉備津神社。あいにくと数年にわたる屋根の檜皮葺替え工事中で、本殿には覆いがかけられていたけれど、事前にお願いして現場の中を見せてもらった。これまた貴重な体験である。
吉備津神社は外観からして大艦巨砲の戦艦っぽく、ガンダム心がくすぐられるものがあったが、覆いの内部はまさに兵器製造ドックの趣き(実際に修理ドックなんだけど)。

 

「檜皮がないようだが…」
「あんなの飾りです!偉い人にはそれがわからんのですよ!」

いやいや…


ちょっと真面目な話もしておこう。
吉備津神社の構造形式(比翼入母屋造あるいは吉備津造と呼ばれる)は他に比類のない独特の形状ということだが、何故この形状が生まれたのかというのは、手元の文献を見てみてもよくわからない。
本殿の平面は、三間社流造(下鴨神社のような形で、最も一般的な神社建築様式の一つ)の内陣・内々陣の周囲に、庇が二重にまわった入れ子状の構成をしている。
これを素直に立ち上げ屋根をかけると、やや庇の長い入母屋になると思うのだが、ここでは何故か棟が前後に細胞分裂している。双子だ(奥の棟は内々陣、手前の棟は朱の壇の上部にあるようだから、両者を同等に扱おうとしたのかという想像もできるが、さらにその前方に拝殿がズコーンとくっついてくると、もうよくわからない)。
断面は断面で、拝殿から奥にすすむにつれ床が上がり、その最上段に内々陣があるという、まことにヒエラルキカルな構成をもつ。
つまり吉備津神社は、平面は入れ子状、断面は階段状、そして立面(屋根)は双子の同形並置、というそれぞれ異なった構成原理を組み合わせて空間がつくられているという、何とも不思議な建築なのだなぁ。


檜皮葺き替えの様子。数年かけて材料を調達しながら直していくというのは、あらためて考えると凄いことである。


ガンダムで思い出したけど、岡山にはとんでもないモノがあったようだ。事前に知っていたら絶対遠足に組み込んだのに、残念。
制作者のインタビュー(←インタビュアーの質問が妙にマニアックで面白い)

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■ 06年06月02日(金)

旧大國家住宅について・追記[柳沢究]

なるほど文化財指定にもいろいろ大変な裏側があるようで。
事情はよく知らないけれど、仮にお金が目的で国指定にしたのだとしても、文化財を維持・管理していくためにコストがかかるのは当然のことであって、指定のプロセスにどこぞの審査のような不正や問題がない限りは、少しも非難されるべきものではないですよね。


ところで、旧大國家住宅が文化財として認められた理由というのは、調査報告書によれば、(1) 比翼入母屋造という極めて特殊な屋根形状をもつこと、(2) 創建以来たびたび行われた増改築の経緯を示す資料が豊富に残っていること、の2点である。

(1)の単に他に例を見ない特殊な造形だけでは、珍しいね、というだけで、あまり意味がない。保存や調査に値するとすれば、その特殊な造形がもの凄く魅力的な空間を生んでいるか、あるいは、その特殊性が形成されるに至ったプロセスから一定の一般性を持った知見(当時の社会状況や建築技術、住宅観など)が導き出せる/出せそうな場合のどちらかである。大國家の場合、この点を(2)が保証している。

大國家の空間的魅力に関しては、悪くはないがそれほどでもない、というのが正直なところ。民家としてのプリミティブさであれば箱木千年家に及ばないし、柱梁架構の美しさ・迫力では吉島家日下部家が勝る。
しかし大國家が面白いのは、たび重なる増改築の結果、内部空間がえらく込み入っている点だ。比翼入母屋造という非常に複雑で象徴的な屋根をわざわざ作っているくせに、屋根形状と内部構成が全然対応しておらず、柱があるべきところに無かったり、台形に歪んだ部屋があったりする。母屋の隣にある蔵座敷の一階は、細かに仕切られた部屋が複雑に組み合わされ、まるで畳の迷路空間である。一体何を考えてこんな家をつくったのか、理解に苦しむほどに錯綜している。
大國家の増改築が、当時盛んに信奉されていた「家相」に大きく影響されていることは分かっており、方位等を書き込んだ増改築計画図面が何枚も残されている。しかし前近代の建築を機能性だけで説明することができないのと同じく、実際に住まわれる住居の空間を「家相」だけで読み解くのは現実的ではないだろう。今後、残された資料により詳細な検討が加えられれば、これまでにない当時の住居観や生活像が見えてきそうである。

昔は一軒の家を建てたら、火事で燃えたり地震で崩れてしまわない限り、時々の要求に応えるための増改築を重ねながら、何代にもわたり執念深く住みこなしてきたと考えられる。大国家はその痕跡を今に残す希少な事例という点で、価値ある「文化財」なのだ。
そもそも建築とはそのように増改築されながら使われ続けるものである(かどうか)、という議論はひとまず置いておくとしても、時代を経て複数の人間の手が加えられてきた建築の方が、ある時代に一人の人間が考え完成させた建築よりも、時に魅力的であることはよくある話。新築が難しくなり、今すでにある建物を如何に使うかがテーマになりつつある時代において、旧大國家住宅はなかなか示唆に富む建築ではないかと思うのである。

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■ 06年05月25日(木)

春の遠足2 旧大國家住宅[柳沢究]

旧大國家住宅というのは、閑谷学校からほど近い和気町尺所にある。吉備津神社本殿と同じ「比翼入母屋造」というえらく凝った屋根をもつ、一風変わった民家だ。創建は1760年という。

 →ぐるぐる動く旧大國家住宅

初めて本格的に実測・調査されたのが2003年(広島大学三浦研究室による。←なんだかとても楽しそうな研究室)、その調査報告を受けて国の重要文化財に指定されたのが2004年。このように文化遺産として整備され始めたのがかなり最近のことなので、建物は内外ともほとんど修復されておらず、あちこちに傷みがみられる。しかしそれが逆に、一つの住居が二百数十年の間住まわれ続けてきた(平成14年まで実際に大國家の人が住んでいた)ということの、厳しさ生々しさを直截的に感じさせてくれる。これは綺麗に復原・修理され、一般公開されている民家からは想像しづらいものだから、なかなか貴重な体験であったと思う。

 

ちなみに、旧大國家住宅は通常一般公開はされていないけれど、事前に和気町の教育委員会に申し込めば、見学できたりできなかったり。

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■ 06年05月22日(月)

春の遠足1 閑谷学校[柳沢究]

たいへんご無沙汰しております。
3〜5月前半は「げのむ」の仕上げやら引っ越しやらが重なり、ヒーヒーでした(言い訳)。そんなこともありHPでの案内はできなかったのですが、この間の日曜日に恒例の「春の遠足」を決行しました。今年は閑谷学校、旧大國家住宅、吉備津神社、後楽園を巡る備前・岡山ツアー。滋賀県大・山本先生の飛び入りもあり、総勢20名の賑やかな遠足となったのでした。

まずは、閑谷学校
山間の道を抜けるとスカッと拡がる敷地、備前焼の屋根瓦と眩しいほどに白い漆喰壁が新緑に映え、何とも爽やかな風景。この爽やかさは、小高い山の懐に抱かれた平地というロケーション(風水的に選ばれたと聞く)もあるが、植栽のメリハリによるところが大きい。植物の繁茂しやすい日本では、ふつう建物周りは植物が全然なしの砂利敷か土、あるいは鬱蒼とした木々に囲まれてしまいがちなのだが。建物間の距離をほどよくとり、石塀や火除山、排水溝などの曲線が柔らかくめぐる。この澄明で端正な敷地計画には、ちょっと日本離れした感覚を感じてしまう。これは後楽園をも計画したという津田永忠のセンスなんだろうか。
ちなみに右の写真は昨年の冬に訪れた時のもの。緑の中に浮かぶような春と、周囲にとけ込むような冬。季節が違うと受ける印象はかなり異なるものの、どちらも見事に敷地と呼応していて驚く。

 

ちょうど我々が訪れたとき、地元の中学生と思しき子供らが、講堂に正座して(足の痺れに耐えながら)論語の復誦をやっていた。「子曰わく、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う(子曰 過而不改 是謂過矣)」
講堂の床は入れ子になっている母屋の部分だけ、漆が丹念に拭き込まれ、鈍く光っている。火灯窓から外へほわーっと誘い出されるような感覚がある一方で、講堂の中心に意識がぎゅーっと集まるような求心性もあり、開放感と緊張感の同居した、まこと勉学に相応しい環境というべきか。

 

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■ 06年02月14日(火)

旧金比羅大芝居・金丸座2[柳沢究]

舞台裏の中二階部分にある、集中力が高まりそうな役者控え室。
丸太の梁と漆喰壁、そこに差し込む光が、ちょっと出来過ぎ君では。

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