神楽岡工作公司
JOURNAL
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2005年12月〜



 ■ 8月28日(土)
20
yanagisawa
柳沢究
午前中、京都の家で休んでいたら、突然森田氏と久住氏がそろって来訪。近くに寄ったからと。あぁ驚いた。
夕方より神楽岡にて、森田氏とチベット・ラサの論文についての打合せ。ヴァーラーナシー、マドゥライとあわせて、「円環都市」三部作(三都物語?)になる予定のものだ。資料が少なく、なかなか難しいところだが、何とかしたい。
そこへ山田氏、約一ヶ月にわたる、海外調査からトランクを抱えての帰宅。日本の定食が食いたい!との希望もあり、大銀にて夕食。
その後大原の久住事務所へ。東大生が2人遊びに来ていた。


 ■ 8月27日(金)
19
yanagisawa
柳沢究
十三にてフィレンツェのMさんと再び。今度は少し仕事の話を。来年、フィレンツェに創作日本食(?)のお店を出すという計画があるらしく、その内装について相談をうける。どこまで実現性があるかどうか、詳細はまだまだこれからだが、もしできたら、これは面白いかも。
Mさんとは、96〜97年の旅行中にプラハの地下鉄で知り合い、その後ずうずうしくもフィレンツェに行った際に家におしかけ、そのまま10日間ほど(キッチンに)泊めていただいて以来のお付き合い。(アジアに比べ)物価の高いイタリアでゆっくり過ごせたのはひとえに、そのおかげなのでした。


 ■ 8月26日(木)
18
yanagisawa
柳沢究
大学で論文やらなんやらやった後、戸田さんの家で開かれたパーティにお邪魔する。町家を改修しながら住んでいるのだけど、神楽岡とはまた違ったアトリエらしい雰囲気がよい。でも建具はそろそろはめたほうがよいんじゃない?

戸田さんの人柄か、ほんとにいろいろな人が来ていた。ほとんど初対面だったけれど、だいたい知り合いの知り合いといった感じで、どこかと繋がっている。悪いことじゃ、全然ないんだが、狭いよなぁ京都は。この狭さをプラスに生かせれば面白いと思うのだが。


 ■ 8月22日(日)
16
yanagisawa
柳沢究
昨日はそのまま白州にテント泊。二日酔いとともに目覚める。
農場の住人は朝6時くらいから活動していたようす。やっぱ、たいへん。

名残を惜しみつつ京都に向けて出発。諏訪が近くなので帰路による。
まず、伊東豊雄の諏訪湖博物館を横目で見ながら、御柱が立ちたての諏訪大社4社(上社の前宮・本宮、下社の春宮・秋宮)を順にめぐる。諏訪湖を囲み4つの社があり、各社が4本の御柱に囲まれるという、入れ子構造。どの境内にも極太の楡(にれ)の木があったが、なぜだろう。御柱は樅(もみ)。一の柱から順に短くなり、4本で螺旋を描いているとは知らなんだ。神様の離着陸装置。
つぎに初の藤森建築、神長官守矢資料館。アプローチの鉄平石と敷地に植えられた植物(不明)がよいが、中の展示が抜群にいい。土もどきのモルタルも意外に悪くなかった。時間が経つとどんどんよくなる建築だと思う。「すごくかわいい」とは同行者の感想だが、現代建築にとってこれはかなりの褒め言葉じゃないか?

松本にも少しよったら、京都着は晩の10時くらい。
昨日の晩に帰京していた久住氏から、お誘いの電話があるも、無理! 寝る。


 ■ 8月21日(土)
17
yanagisawa
柳沢究
山梨の白州町で開催されている「ダンス白州2004」に水谷氏らと行く。この夏はじめての遠出。
田中泯さんが主宰する身体気象農場を敷地に毎年開かれている踊りのイベントで、今年は久住氏が舞台作りのワークショップを手伝っていた縁で、ちょっとのぞかせてもらった。メインの目的は象設計集団の樋口裕康さんの指揮のもと久住氏がタタキをつくった特設舞台と、そこで行われる踊り、奥三河の伝統芸能「花祭」の鑑賞だ。

会場となっている「身体気象農場」は、名前のとおり農場だった。鶏があちこち歩き回り、山羊と黒い顔の(目つきの悪い)羊がいて、ロバが寝てて、「うこっけー」が鳴いていた。様々に着彩された家畜小屋は当然すべて手作り。中心には煙突ともオブジェともつかぬ塔状のものが屹立。すでに興奮気味。森の中には木々を切り開いて作られた舞台があり、広場には地面を2mほど掘り下げその中で踊る舞台(壁面は版築)がある。いずれも、建築をやり舞台に少しでも関心のある人なら一度は思い浮かべたことがある、きわめて素朴なアイディアだが、なんといっても現実につくってしまっているのは、手ばなしでえらい。

踊りを観る前に、現地入りしてすでに1週間たつ久住氏に案内してもらい、少し離れた田中さんらの舞踊団の拠点、本村・桃花村を見学にいく。過疎により荒廃した山村に住み込み、地力で家屋を修復・居住し、耕地を再開墾していったという地。「生活から踊りをつくる」乃至「生活から生まれる動きこそ舞踏」というのが、この村のコンセプトと理解したが、しかし間違いなく、当たり前なんだが、そこでは建築も「生活から生まれて」いるのだ。ヴァナキュラーな建築・集落が好きで、けれど自分はそれを生み出した生活にはとても戻れず、憧れても触れられない、そんな屈折した思いを持っていたのだけど、ここには現実に(しかも目的意識的に)それをやっている人たちがいるということに、羨望と嫉妬が混じりつつも、脱帽の思い。

晩から花祭ご一行の舞台。「とほへーてほへーてほほへてほへー」と、酒を飲みながら、観客も入り乱れる熱いライブ。今回は夏で時間も2時間半程度だったが、本番は真冬に一昼夜やるらしい。そのあとは懇親会に。例のごとく途中から記憶がないのだが、田中泯さんは写真で見るよりはるかに若く男前だった。象の樋口さんはどうみても職人の親方。ここでは単なる設計屋はおよびでないみたい。

ここに書いたのはほんのわずかの体験で、もちろんこんなに単純なことではないだろうし、そのやり方をいろいろ批判するのも容易い。ただ、こんな「建築」を自分はやりたいのだと、漠然としかし繰り返し思ったのでした。


 ■ 8月20日(金)
13
yanagisawa
柳沢究
今週は大学で、委員会の書類作りとか、10月の「アジア・青年建築会議」の段取りだとかをやっていた。論文にも毎日向かうものの遅々として進まず、げんなり。こんなことではいけない。

今回のオリンピックは珍しく自宅にいて、時間帯が深夜のこともあり、例年になく観戦している。体操の男子団体はしびれた。シドニーの時は木匠塾で岐阜の山の中にいた。テレビもなかった。アトランタの時は確かベトナムとラオス国境の街にある雑貨屋のテレビで開会式をみた記憶がある。ベトナムの選手が初めてアメリカのオリンピックに参加したこともあり、人数は少ないがそれなりに盛り上がっていたように思う。ラオスの食堂ではタイガービールを飲みながら高飛び込みを見た。インドに行ったらオリンピックはそっちのけで、クリケットの対パキスタン試合で大熱狂であった。
ぜんぜん関係ないが、教育テレビでオリンピック中継の裏の時間にやっているグッチ裕三の「今日の料理」再放送がよい。グッチ裕三のぐたぐたのキャバクラトークと、アシスタントのお姉さんの投げやりな突っ込みの応酬が面白くて、オリンピックの合間についつい見てしまう。料理も結構うまそうなのだ。


 ■ 8月17日(火)
12
yanagisawa
柳沢究
沖縄の仕事で中断して、そのままになっていたマドゥライの黄表紙作業を再開する。こういう論文書きは時間をあけてしまうと、以前どんなこと書こうとしてたか忘れてしまう。メモをみても、はて? ああ、またアイドリングからやりなおし。

晩はフィレンツェでお世話になったMさん、盆で帰国中につき大阪で食事。こんな店に行って来た。イベントとかパーティにも使われるらしく、吹き抜けに迫力のある、贅沢な空間の使い方だ。


 ■ 8月16日(月)
9
yanagisawa
柳沢究
買い物がてら、ふと思い立って「100年ぶり」に公開との「何有荘」の庭園を見学に。

下調べは特にせず。1000円という激高な入場料とひきかえにもらったパンフレットは、ほとんど意味不明であった。「小堀遠州の一番弟子であった小川治平が作庭したもので…」云々。場所がら、「小川治平」は小川治兵衞のことと思われるが、小堀遠州の一番弟子?初代のこと?でも明治時代のものらしいしな…?。
第一印象はどうにも散漫、というか、あきらかに手入れが不足している様子。草木があからさまに元気がないし、まとまりもない。うーむ、こんな状態で金とって公開しちゃいかんやろう。ただし、水の流れの作り方や、石組み、起伏のある地形をいかした立体的なつくりなど、細部と構成には、ところどころに、おぉ、とか、ほほぅと思わせるものが見られた。木々に目がいかない分、その仕掛けはやや作為的に感じられるほどだ。
見所の一つらしいトンネル(敷地の一番高いとこにある草庵に地下からアプローチする)の内部は、丁寧にも左官で洞窟風に仕上げてある。明治の金持ちらしい悪趣味さ(金がかかってるわりに妙にチープ)がよいといえばよい。江戸川乱歩の小説に出てきそうといったら褒めすぎか。

家に帰って調べてみたら、やはり7代目小川治兵衞の作のよう。履歴は混乱しているが、もともと南禅寺塔頭の一つ、のち稲畑勝太郎邸として「和楽園」と称し、いろいろあって現在、大日山法華経寺(幸福の寺)「何有荘」となっているらしい。
これと比較してみると、無鄰庵や對龍山荘は、やっぱりよくできているなあ。


11
yanagisawa
柳沢究
↑の帰りがけ、今出川に妙に人が多いと思ったら、送り火だった。
今年は見物さえしなかったが、去年は大文字の火床近辺まで見物に行ったのだ。なぜかその時は写真を公開しそびれたので、今年のせてみます。


薪はこんな風に運ばれていく


井桁に積んでワラを巻いた火床



こんなのもある。火にはいろんな人の念いがこもっています。

見学の人々。点火後、お堂の周りは熱すぎる


眺め最高。ここでバーベキューをやると、
麓から発見され、警察に通報されることがあります


かなり、熱ちい



 ■ 8月14日(土)
7
yanagisawa
柳沢究
沖縄の思ひ出をふりかえって。
まずは玉城(たまぐすく)城址。

基本情報はまずこちらを参照。

ふもとからは頂上まで100mあるかどうかの小山に築かれた山城の跡である。地表を覆う植物の切れ間のあちこちに琉球石灰岩(サンゴ礁が石化したもの)が露出しているいる。土はその表層に薄く積もっているだけで、沖縄の大地が石灰岩の塊にほかならないことがよくわかる。まさに沖縄はサンゴの賜物なのだ。

樹木(ガジュマルだか何だか)も薄い地表にへばりつくように、広く浅く根をのばし、そのためかどうか知らないが、幹や枝もねじくれたものが多い。こりゃ建築用にはあまり使えなさそうで、いくら木が豊かでも、石造文化が発達するのは当然に思われる。

玉城城址は、観光スポットとしては一枚岩盤をくりぬいた本丸の門だけが唯一なのだが、実は裏の道があり、これが面白い。山の中腹、おそらく三の丸跡あたりから、本丸へ登る道とわかれて山の反対側へまわるルートがあるのだ。ハブが出やしまいかと恐れつつ、巨大な石灰岩の塊の隙間を上り下りし、時には岩の中をくぐりながら進んでいく。道すがらにはグスクゆかりの人物の墓があったり、小さなウタキがあったりする。石灰岩でできた島の胎内をさまようような、沖縄の原始の風景を思い起こさせるような、そんな風景に出会うことができたのは幸運だった。

このような石灰岩だらけの島では、斎場御嶽の「三庫理」のような奇跡的な空間が、地殻変動かなにかの結果、偶然に生まれたりするのも、ありえる話だ。聖地の原点。

玉城本丸の門


内側から。門は東を向いている

裏の道

石灰岩の間を通っていく


岩に薄くついた植物

斎場御嶽の「三庫理」
現代建築にこんなのあったような


 ■ 8月12日(木)
6
yanagisawa
柳沢究
原稿の目処がようやくついたので、3ヶ月ぶりに奥村、モンドとともに木屋町マリアッチへ。そろそろ神楽岡として何か企画を立ち上げたいなどという話をする。しかしテキーラは美味い。この日も大瓶をほとんど一人で開けてしまったが、勘定書をみてびっくり。ちょっと飲み過ぎた。
しかし気分がよかったので帰りがけに焼酎を買って水谷邸に遊びに行き、そのまま神楽岡泊。翌日死亡。
そういえばまたメガネを忘れてきたな。


 ■ 8月10日(火)
4
yanagisawa
柳沢究
モンド氏から「ケンチクマン」の最新版が送られてきたのを機会に、久々にHPの更新作業をした。更新されてない間に何回も見に来てくれた方には、すいませんでした。別にインドに逃亡していたわけではなく、単にサボっていただけなのでした。ありがたくもお叱りを受けたりしたので、沖縄のことはひとまず忘れて、ぼちぼち再開したいと思います。

8月に入ってから何してるかというと、じっとりと暑い京都にて、すでに〆切を過ぎた原稿に取り組んでいます。はやく終わらせたいのだが。
猛暑、熱暑、酷暑とさかんに言われる今年の夏。外で作業していたらたまらなかろうが、家の中にいる分にはあまり気にならない(エアコンはないです。念のため)。吸い込むと肺があったまるような空気、肌に薄い膜がへばりついたような湿気は、実は嫌いではないのだ。在南インドの山田氏↓がうらまやしぃ。


 ■ 8月9日(月)
5
yamada
山田協太
I visited Kandy, old capital of Kandy kingdom, and Sigiria.
I was surprised that also in Kandi, there are shophouses.
Shophouses are one type of townhouses can be seen in many countries in South East Asia. They are said to be originally brought by Chinese and then mixed with European building.
Sigiria was the remaining of the city constructed in 5th? century. It is constructed on a very large rock, which has 200m in hight. You can see great view in all directions from the top of the rock. On the way to the top, there exist old paintings on the rock wall. It is also beautiful and famous.
I hope if I could wright english well.


 ■ 8月6日(金)
3
yamada
山田協太
I'm making surey in Colombo for 4days. Here, many buildings constructed by dutch are remaining. They are usually first storied, having front verandha facing a road, and court-yard or back-yard in the back. They are said to be developped from Sri Lankan vernacular architecture. Now back-yards are filled with small houses iregally. It is becoming the importantprobrem of the city.
But people living here is very lively and kind.


 ■ 8月3日(火)
2
yamada
山田協太
Today I went to UDA(Urban Development Authority) Office in Sri Jayavardana Pra Kotte. Though Pra Kotte is capital of Sri Lanka, it is rural area. Exept some governmental institution, there exist nothing but forest.
For Professor's help I can get many useful datas.
Life in Colombo is highly comfortable.

But when I come back to my house, I found my computer broken.
I closed my trunk so hard. Liquid crystal got serious damage.
Now my display shows fantastic images.


 ■ 8月1日(日)
1
yamada
山田協太
Now I am in Colombo, Sri lanka.
I met Prof. Samitha MANAWADU in Moratuwa Univ.
He prepared for me very nice guesthouse near university.
It has large two bedrooms, two bathrooms, one kitchen and one dyningroom.
Above all, it has large verandha facing river.
In morning and evening the scenery from here is very beautiful.
I can see many animals.
Natharaja san who take good care of me serve me some coffe in every morning.


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