神楽岡工作公司
JOURNAL
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2005年12月〜



 ■ 10月31日(木)

柳沢究

昼間、銀閣寺の家の実測図を清書。改築案を何通りか考える。1960年頃に建てられたこのこぢんまりした家の中は、とにかく細かく仕切られており2畳〜6畳間までが一通り揃っている。当時の、現在に比べ大人数の家族向けであることが、その理由かなとも思うが、実際のところは歴史的な資料をあたってみないと何とも言えない。似たような室構成は銀閣寺そばの鹿ヶ谷にある昭和初期の建て売り町家群にも見られるから、源流はそころへんだろう。さほど裕福でない層を対象とした都市型一戸建て住居。前近代であれば、1〜2間にして家族で雑魚寝をしながら、家中が時には居間ときには寝室という具合に使っていたスケールだが、やっぱ個室が欲しいじゃん、という要求には逆らえない。したがってもとから大きくもない家をさらに細かく仕切っていくことになった日本の住宅。ここらへんのセンスは今も建て売り住宅群に健在である。
けれど状況は変わりつつある。家族がである。生活スタイル等変化はいろいろあれど、端的に言ってしまえば人数が減っているのだ。昔なら一家5〜6、7人で住んでいた住宅に、今は親子3人(あるいは夫婦2人)で住むようなケースが増えてきている。当然、住宅は変わるべきであろう。昭和の30年代に量産された、ごく普通の小規模住宅。その改築・再生の意義と可能性があるとすれば、一つは、たぶんそのあたりにある気がする。

18時から森田氏とともに銀閣寺の家施主Hさんと打ち合わせ。基本的な空間構成とスケジュールについてコンセンサスをとる。資金と労働の主力を、中心となる吹き抜けを中心としたスペースに注ぎ込むことにする。全部はとてもいじれない、いじりだしたらキリがない。引き渡し予定日は12/20、クリスマスを新居で、というのが目標だ。仕上げ材料、細部おさまり等については考える時間はない。一つずつ現場で決定していくことになる。取り返しのきかない模型製作みたいだなこりゃ。" Don't Think. Feel !! " と言ったのはだれだったけか。

 ■ 10月30日(水)

柳沢究

午前中に銀閣寺の家の補足実測を行う。柱は心々で910mm(=3尺)ピッチ。以前に施主が見積もってもらったリフォーム業者は900mmピッチで作図していた。そんなのもわからんのか?

昼間研究室のゼミに参加。今年はジャカルタのカンポン研究や京都における「合筆・分筆」の実態調査など興味深い修論がいろいろ。自分の黄表紙論文は遅々としてすすまない。何とか文章は半分くらい書けたが。

夕方からは森田、山田、門藤各紙とアテネコンペのスタディ模型作製。ハニカム作りの作業めんどくさいったらないけれど、つくればつくったで大分進展する。こりゃできたらよさげだ。にわかにみんな忙しくなり始めて、コンペの追い込みが少々心配である。

こんぶ金物より見積もりのFAX届く。予算の1.5倍、約15万円があがってきた。少々(できかないかもしれない)調整が必要。

 ■ 10月29日(火)

森田一弥

昨日夕方、鈴木健太郎が神楽岡来訪。「」の初代現場監督で、完成前に大学を休学して海外へ旅立ち、二年間帰ってこなかった強者だ。じっくり、いつもの店「バターカップス」で話し込んだ。神楽岡に帰って、左官イベント計画をまとめにかかる。今日になって昨日描いた図面と併せて企画書を書き出したら、えらく時間がかかって約束の時間にぎりぎり。パソコン作業は時間が飛ぶように過ぎるので怖い。

組合の専務さんに案を説明したが、向こうは案が欲しいと言いながら自分の望むものはもう固まっていて、とりつく島もない。提案を要請されたのは浅原の親方だから、そちらに持っていけば反応も違うのだろうが、どうしようか。もう少し組合側に自分たちの企画に危機感を持ってもらわないと、何を持っていっても一緒だろう。この件はしばらく放って置いてみるかな。

一乗寺のマンション新築の話が動き出しそうだ。これも二週間程度で最初の案をまとめないといけないだろう。11月は結構あわただしくなりそうだ。

 ■ 10月28日(月)

柳沢究

16日のところで書いた看板の件で、柳馬場夷川上るの「こんぶ金物」に相談にゆく。鉄板を楕円形に折り曲げる方法とか、溶接の具合とか、いろいろ相談。何とかいけそうな目途がたつ、あとは見積もりの問題。こんぶさんの工場内は楽しい。さして広くないなかに、あらゆる種類の金属材料がころがっていて飽きない。おやじさんはたいへん気さくな方で、金属材料についてあれこれ親切に講義していただく。鉄の表面仕上げにはこんなんがあるとかサンダーで実演してくれたり、ステンレスには錆びるやつとまったく錆びないやつがあるんやで、アルミのアルマイト加工(アルミサッシのようなやつ)は、メッキとは違うんやで、表面がセラミックなんじゃ(そんな言い方はしてない)、とか、いろいろネタを頂いてきた。ぜひまた遊びに打ち合わせにお邪魔したい。

夕方、世界旅行中に道連れであったK田さんが嫁はんと1才の娘とともに来京。木屋町の鉄板道場(だっけ?)で久々に食事する。店はいまいち。

 ■ 10月27日(日)

森田一弥

急に寒くなってきたせいで、早速風邪をひいてのどが痛い。知人、友人に個展の案内を出し、新聞などにも個展の案内を掲載してくれるよう、コンタクトをとる。こういった、パブリシティの仕事は思いの外時間を食う。それでも個展の作品制作にかかった時間を思うと比べものにならないのだから、手間を惜しまず色々な人に見てもらわねばと思う。

夕方からアテネコンペの打ち合わせ。空間の大きさが決まらない。というよりそもそも紙のハニカムでどの程度強度が出るのか、怪しく思われてくる。とにかく模型を造ってそれで検証せねば。夜の神楽岡会は来年の左官イベント会場計画の打ち合わせ。大体行けそうな方向性は見えた。参加者は門藤、森田、山田、柳沢、吉村、水谷、南。

 ■ 10月25日(金)

柳沢究

最近ゆえあって特許のことをいろいろと調べている。知人がある新しいビジネスモデルを考えており、少しばかりそのお手伝いをしているのだ。将来的に仕事につながればいいなぁと思うが、現状はまぁ勉強というところ。
「特許」というと何か新しい発明品に関するもの、と思っていたが、昨今ではインターネット、携帯電話など情報機器を用いた新しいビジネス形態の「アイディア」そのものが対象になるらしい。つまり、そうこうああすれば今までにない商売が成り立つ、ということを思いついたら、それだけで特許がとれて、アイディア次第では夢もふくらむというわけだ。

そういうわけで今日、京大の中にあるベンチャー・ビジネス・ラボラトリー(VBL:Venture Buisiness Laboratory。やってることはかなりアグレッシブなわり陳腐でチープな建物)というところで週一回行われている、特許相談室なんてものに行って来た。関西TLOというところからきている「特許流通アドバイザー」なるおじさんと、約一時間にわたりお話しした。聞きたかったことは、素人でも実務的に特許申請が可能か、ということと、その具体的な作業内容について。答えは、十分可能だけどかなりしんどいよ、ということだった。僕の理解した限りでは、特許というのは自分の考えたアイディアを他人に侵害されないための権利であり、特許申請とはいわばその権利を守る一種の「法律」案を作成するという作業である。だからアイディアの独自性は当然として、難しいのはその文章。特許をとった後に、他人が簡単に似たことをできる(=法の網をくぐる)ことのできるような、「ザル」な文章ではいけない。法律文のような持って回った、定義と条件付けがちりばめられた、複雑に構造化されたわかりにくーいけど厳密なあの文章を書かないといけないのだ。たいへんだこれは。

せっかくなので、ためしに神楽岡でやったSHELL-TERについて特許をとれるかどうか聞いてみた。答えは無理。なんとなれば既に公に発表してしまっているからだ。つまり我々はあのSHELL-TERというアイディアについて、何らいかほどの権利をも有していないらしい。したがってどこかの企業に売り込みにいっても、門前払いされるであろうし、たとえどこかの企業がまったく同じものを商品として売り出しても、我々には何もいえないとのこと。マジですかか。

そういうつもりがあるんだったら、コンペに出す前に特許を申請しないとね〜、ってできるかぁ!(坂茂はその点アメリカ仕込みだけあって、さすがにしっかりしている。アルミ棒を使った仮設テントなんかも、ちゃんと特許をとって国連に売り込んでるし。たぶん紙管も)。こういう視点でみると企業がスポンサードするコンペは、宣伝事業という以上に、あわよくば事業化できるおいしいアイディアを青田刈りするチャンスへの投資なのだということが理解される。いままで学生のコンペ作品が事業化されたなんて、聞いたことないけれど。

自ら事業化する資本をもたず、アイディアはどんどん発表していかないと生き残れない建築家がアイディアを守る方法の一つはノウハウを秘密にしておくこと、であるという。例えばコカ・コーラの原液の製法は、あの巨大な社内でたった3人しか知らないとか(その3人は一緒に飛行機に乗ってはいけないことになっているらしい)。そういう具合にノウハウを機密にしておけば、特許をとってなくても堂々と商売的に渡り合えるというわけだ。その時重要なのがプレゼン能力、大切なツボはひた隠ししながら、いかに魅力的なことができるかをアピールする能力である。そうだよねぇ。わかるけどさ。何だかけちくさい話である。そんな商売上手な建築家いらねえやと思う。

 ■ 10月24日(木)

森田一弥

昨晩、左官職人の久住誠氏と漆職人の東端唯氏が神楽岡を来訪。久住氏は淡路島出身、久住章氏の次男で、弱冠28歳にして金閣寺の茶室の左官工事を指揮する親方である。柳沢氏も加えた四人で「京都でアバンギャルドをやろう!」と大いに盛り上がる。東京などに比べ京都には技術のある職人が多い(彼らのような発想の柔軟な人は少ないが)。豊かな構想力さえあれば、それを現実に立ち上げる技術を使って、誰も見たことのないような空間が作れるはずである。

その勢いで朝五時に久住氏と待ち合わせ、高速を飛ばして堺市の久住有生(なおき)氏(誠氏の兄)の現場に飛び入り参加させてもらう。華道の家元の家で、台所周辺をありとあらゆる材料と技を駆使して改修してある。いや、参った。彼らのような能力のある職人は設計者の存在意義を危うくさせる。その日の仕事は青色の南蛮漆喰(漆喰を土で割ったもの)の磨き仕上げ。初めての材料と久しぶりの磨き仕上げであり、水引の具合や鏝を当てるタイミングなど、いい勉強になった。

夜11時頃に京都に戻り、アテネコンペの打ち合わせに合流。かなりまとまってきてはいるが、もう少しじっくり練り上げた方がいいような気がする。まだまだアイデア一発の域を出ていない。





柳沢究

晩に山田、門藤、中川(工繊大M1)とともにアテネコンペの打ち合わせを行う。けっこうイケイケで盛り上げって進んだが、森田氏には危惧されているようだ。
コンペと関係ないけど、最近はやっている言葉は「総持ち(そうもち)」。構造として整然と成り立っているわけではないが、いろいろな要素がからみあい全体としてなんとなく成立している(持っている)状態をいう職人用語である。「不揃いな材でつくった法隆寺や薬師寺の塔は、それらが一本一本支えあって『総持ち』で立っている」などいう用法が一般的であるが、いろいろ応用のききそうな言葉だ。議論がややこしくなった時に、三角関係で追いつめられて困ったときなどに、ぜひ、「いけるんじゃない、総持ちで」。

打ち合わせ終了後、家で論文作業をやろうと思ったらテレビでインド映画「サラーム・ボンベイ」をやっていたので、インドの都市生活を学ぶ、という名目で観賞・堪能して寝る。ボンベイのストリート・チルドレンを主人公とするこの映画、すごいです。息をつかせぬ展開に、美しい映像、子役の魅力など(なんでインドの子役はあんなに表情豊かなんだ!奥が深すぎるインド ←と思ってたら実際のストリート・チルドレンを使っていたらしい。やっぱすげぇぜインド)。密度の高さゆえにCMが入るとホッと一息つくぐらいだから、映画館で見たらさぞ緊迫しただろうな。インド好きを自称する人間は「インド - 傷ついた文明」(著:V.S.ナイポール)とあわせて必見です。

 ■ 10月23日(水)

柳沢究

24日のところに書いてあるが、左官職人久住さんと漆職人東端氏および森田氏とともに飲む(少し)。いつもながら、職人さんてのはギッシュですねぇ。

今頃気づいたかという感じだが、話をしていて得た一つの新たな確信は、左官に限らず伝統的な技術を有する各分野の職人が、今さまざまな方向へ視野と手を広げつつあるという状況だ。時代の安定期においては、一つの確立した産業はおそらくその経済的基盤の堅牢さ・大きさゆえに、職能と技術がとことんまで細分化・専門化されるが、経済状況の変動期においては、それらが逆に統合・再構成という挙動を示す。わかりやすく言ってしまえば、それまでの仕事では食っていけなくなるからだ。

漆器の例で言えば、あの世界は下地から最終仕上げの蒔絵師まで工程毎に極限まで専門化がすすんでいる。それだけ多くの職人が漆器という世界で生きられるのは、漆器の単価の高さとその需要があるという経済的条件があるからにほかならない。それが成り立たなくなれば、職人のとる道は二つ。「伝統工芸」という厳しい世界で生き残るか、あるいは別の世界へ突っ込むかだ。

事実さまざまな職人や伝統的技術(技能)者が他分野に進出してきているし、建築の世界も例外ではない。ちまたではやりの「コラボレーション」というやつの一側面も、この職能と技術の再構成という文脈でとらえられるだろう。
いいたいことは、建築家(志望の人も含む)は、うかうかしてられん、ということだ。手にある技術なんてちょっと図面と絵がかけることくらいなんだから。それだけじゃ勝負にならない。ただのドラフトマンに成り下がること間違いない。可能性の一つは自分も技術を身につけること。これは既存の技術にすりよることではなく、新たな技術体系そのものを作り出すことをも含む。もう一つは構想力と企画力、つまりは技術の再編成の中でプロデューサーとしての役割を果たすという道だ。これってかなり古典的な建築家像だよな。

 ■ 10月21日(月)

柳沢究

銀閣寺民家改修の打ち合わせで、森田氏とともに施主Hさんの家を訪問。150万という予算の中で、手をつけるところと手をつけないところの線引きを明確にする。Hさんの要望はの重点は、玄関と客間であるとのこと。こちらが一番の問題点とみなしていた箇所については、面倒であるし、お金がもったいないから何にもしないくていい、といういさぎよい割り切りであった。また、アルミサッシへのこだわり(現状は木サッシ)や外壁の塗り替え(前面部のみ)などへの執着など、こちらとの意識の差を改めて確認する。DKの天井をぶち抜いて吹き抜けにするという提案については全面的に賛同、いいですね、がんがんぶち抜きましょうとの頼もしい言葉。

話をしているとどんどん夢はふくらみ話は盛り上がったが、予算のことを思うとハラハラする。さまざまな要求はありつつも、基本的には好きにやってくださいとのことで、逆に怖い気もするが、ここは開き直っていきたい。町家でもなんでもない普通の中古住宅の再生は、ほんとうに重要なテーマであるし、可能性を見出したいところである。

予算についてHさんから、娘(5〜6才?)と婚約して、その結納金を施工にあててくれないか、という非常に魅力的な提案がなされたが、快諾したいところをグッとこらえて苦笑にとどめる。

 ■ 10月20日(日)

森田一弥

今日は銀閣寺横の八神社のお祭りで、朝七時からの御輿の準備に呼び出される。この準備作業は、御輿の本体に担ぎ棒をくくりつける作業で、「しばる」技術の勉強になると思い、参加してきた。昔、建築現場の足場は丸太を縄で縛って組んでいたのだが、番線や鉄の足場の普及によってそうした技術はほとんど伝承されていない。御輿などを縛る時にだけ、そうした技術が生き残っているのである。

昼から雨の中御輿を担いで、夜からアテネコンペ打ち合わせに合流する。ちょっと煮詰まってきたところで、永谷さんの紙のハニカム構造を使った帽子が登場、一同一気に引きつけられる。今まで考えてきた基本的なテーマがほとんどクリアできそうなので、これで行くことになった。他に面白いアイデアはいっぱいでていたが、これで一気に壁を抜けた感じがする。参加者は奥村、永谷、中川、門藤、南、山田、柳沢、宇都宮、金谷、森田。

続いて銀閣寺民家改修。模型を見ながら打ち合わせ。通常、住宅で使われないような材料を、素人の技術で住宅に使えないかと思っている。面白い仕事になりそうな予感。

 ■ 10月19日(土)

柳沢究

烏丸御池の元龍池小学校講堂にて17〜19日に開催された、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の2002年度秋季リーグに行く。17、18日は参加14大学約20チームの作品パネル展示、19日はプレゼンテーションと審査・表彰である。詳細は今後京都CDLのサイトや機関誌「京都げのむ」第3号で公開されるはずである。どのチームの作品も力作であるが、むしろバラエティに富んでいた点が面白かった。

もちろんある種の類型化- お洒落デザイン指向、社会派、イベント・行為提案型、誇大妄想捏造系、和みコミュニティ系、調査重視派など - は可能であるし、いままでに見たことのないもの、などというのはおいそれとありはしないのだけれども、いわゆる建築業界誌や大学の設計演習で見られる「けんちくけんちく」の勢揃い状況より、よほど健全であるし可能性があることを確信する。

一点残念なのは、自分がそこに参加していないことである。どんな祭りでも見る阿呆はあまり面白くないのだ。次回は提案する側で批評をうけたい。 晩は例のごとく懇親会。室町通りの「七宝」、六角烏丸の店(名前忘れた)。まあまあ。

 ■ 10月18日(金)

柳沢究

インド、ヴァラナシで修士論文のための調査をしていた時に手伝ってもらったアナミカ女史から、子供が産まれたとのメールをもらう。彼女はBHU(Banaras Hindu University)出の才媛にしてヘナ(heena、メヘンディ)デザイナー、僕のヘナ・アートの師匠でもある。その彼女から手作りのインドグッズ(カード、アクセサリーなど)やサリーsareeを日本で販売することができないか、という相談をうける。インターネット等をつかえば無店舗販売も容易に可能だし、潜在的インド好き人口からも可能性はないこともなさそうな気はするが、いかんせん商売のことは門外漢もいいとこである。インド好きで商才のある人、だれか相談にのってほしい。 夜、論文作業にとりかかるも滅入る。

 ■ 10月17日(木)

森田一弥

先日「」が受賞した「日本建築士会連合会賞」の冊子が送られてきた。優秀賞5点、奨励賞5点(繭は奨励賞)の中にT中工務店のサラリーマン建築家達の作品が3点も入賞しているのには驚いた。こういった大規模事務所やゼネコン設計部の造ることのできる作品自体にはあまり興味もないけど、社会的に充分認知されているこれらの会社の人間が、個人名でこういった賞に応募してくる気が知れない。

先月、柳沢の作品が惜しくも選外になった「インテリアプランニング賞」の大賞作品(これもT中)も、ちゃっかり奨励賞をもらっている。個人事務所の人間(もちろん僕らを含めて)が唯一社会的にアピールできる場として応募しているのに、会社の名前で受けた仕事を個人の仕事としてこういう場に出してくる彼らは、セコいというかなんというか・・・ちなみに僕が熱望していた賞金は(優秀賞のみ)彼らの場合、自分のフトコロにはいるのか、はたまた会社に没収されるのか、目下一番気になるところだ。 それでもよーく考えてみるとこんな連中に負けてる奴ら(僕ら)も情けない。「賞」が取れないのと建築的な善し悪しとは全く関係ないからそんなこと気にする必要もないんだけど、たかが「賞」くらい、軽くもらってその上で自分の信念を貫きたいものだ。

 ■ 10月16日(水)

柳沢究

朝、くだんの銀閣寺の住宅を皆で見学にゆく。詳細はのちのち明らかになるが、とりあえず僕がプロジェクト・リーダーとしてまとめることに決定。竣工は12月中旬が目標だ。 横浜にある、とある事務所の看板(サイン)のデザインを依頼され考える。予算10万の小さなものだが、その小ささがよい。風雨にさらされる看板の最低要件は、当然風化に耐えること。そしてできれば「汚れる」ほどに「きれいになる」ものでありたい。これは建築についても同様。時間軸を考慮にいれた建築というのは本来一大テーマであるはずだが、建築界の現状はどうか? 

レンガや鉄板、銅板、アクリルなどを使った案を6つほど考えたが、最終的に鉄骨と湾曲鉄板による案に決定する。おそらく下の「こんぶ金物」に相談することになりそうだ。近い内にまた当ページ上で公開したい。 晩に遅日草舎に遊びに行く。古書店を紹介する雑誌に遅日草舎がでることになった。11月発売とのこと。店で生田さん、忍さん、上海人の容くんと中国の話を肴に久々に酒を飲む。ひさしぶりのせいか翌日は二日酔いで頭がガンガン。

 ■ 10月15日(火)

森田一弥

午前中、知人が銀閣寺の参道近くに買ったという中古の木造住宅を見に行った。昭和の三十年代の建築で、外部はモルタル掻き落とし。ご主人が自力改修で色々と手を入れたいが、知恵を貸してほしいとのことだった。予算は150万円。神楽岡の連中が設計施工を請け負ってやってみるにはちょうどいい規模である。損得抜きでやれば、充分色んなことができる。さっそく神楽岡のBBSに載せる。

昼に「喜多見プロジェクト」の階段制作をお願いした京都御所の南の「こんぶ金物店」から請求書のFAX届く。消費税込みで50万4千円。ありがたい値段だ。段板合わせて70万には収まる。今回はサッシ、階段を京都で造って東京に運ぶという強硬手段に出たが、結局こちらの方がお互い顔を見ての話だからふっかけられることもないし、仕事の細かい打ち合わせも可能だ。これからも金属加工はここにお願いすることになりそうである。

日昌グラシスに21日から喜多見の現場に入ってもらうよう、確認の電話を入れる。ただ、後一週間で喜多見の現場が波板ガラスが施工可能なのかどうか、怪しい。施主さんからは「問題ない」とFAXが来てはいるのだが。今週末、階段を積んでトラックで東京に行って来た奥村に東京の状況を聞こうにも連絡つながらず。 東京の個展用に作品の解説文を英訳するにあたり、試しに英訳ソフトに文章をぶち込む。出てきた文は、そこそこまともな英文になっているような気がするが、逆をやって出てきた日本語が意味不明なのを考えると、あまり当てにはならなさそうだ。自分で訳すしかないか。





柳沢究

論文を書かなくてはならない。日本建築学会のだす論文集に載せてもらうためであり、その筋では「黄表紙」と呼ばれるものだ。卒業論文、修士論文などいくら書いても結局は大学のなかのものであり、社会に認知してもらうためにはここに出さないといけない。それが大人のルールらしい。
博士課程に進学してから設計の仕事などを理由にずっと先送りにしてきたのだが、今こそ書く、というのが今月の目標。

テーマは修士論文でもあつかった、北インドにあるヒンドゥー教の聖地ヴァラナシ(Varanasi、バナーラス Banaras、ベナレス Benares)の都市空間の構成原理を巡礼路や寺院・祠といった宗教的要素に着目しながら読み解くというものである。とにかく論理の流れをはっきりさせ、いいたいことを明快にする。やるべきことは設計の作業と共通しているのだが、なかなかにしんどい。研究者にはむかない、と論文を前にするといつも思う。 夜は週に一度宿直のバイトをしている西陣の渡辺医院に出勤。

ここの話はいつかまとめて書きたいが、一つだけ先に述べておこう。渡辺医院は肛門科専門、つまり「痔のお医者さん」である(別名:渡辺肛門寺)。そしておそらく日本一の名医である。あなたがもし痔主(ぢぬし)であるならば、まよわずここの門をたたくことをおすすめしたい。それは早い方がよい、なにごとも早期治療が大切なのだ。

 ■ 10月14日(月)

柳沢究

日々躍進拡大をつづける我らが神楽岡工作公司ホームページ。しかし更新されているのは、ほぼBBSのみ、という状況を打開し、さらなる発展をめざす新コーナー"KAGUROKA-JOURNAL"のスタート。要はスタッフによる「管理者日誌」である。

何故そんなものを設置するのか。神楽岡に集うメンツもそうそう毎日顔をあわすわけでもない、ましてやホームページ読者は知らない人ばかり(ホントか?)。そんなときは、仕事関係の話をはじめ日々の個人的活動、興味、交遊関係など、守秘義務とプライバシーと己の羞恥心の許すかぎりにおいて公開するのがよい、というのが僕の理解だ。ホームページというものは、どんなサイトにせよ、とどのつまり自己宣伝につきるのである。しかも何らかの仕事に関係したものである以上、自分(たち)はこんなことをやってますよ、というのを大っぴらに主張することで、あわよくば仕事をゲット!という下心のなきにしもあらずなことは誰にも否定できない。

だとすれば、もうオープンにするしかないのである。「まってまだはやいわ、わたしたちまだしりあったばかりなのに…もうすこしおたがいのことをりかいしあったほうがいいとおもうの…そしたら…」意味が不明瞭になってきたが、多分そういうことだと思うからだ。 このコーナーが多少なりとも我々がどういう人間であるかを知ってもらう端緒となり、さらなるコミュニケーションの発展につながってくれれば、これ幸いである。


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