神楽岡工作公司
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2005年12月〜



 ■ 3月30日(土)

井上大蔵

今日、棟方志功展に行った。
作品を観ていたら、唯々、泣いてしまった・・・
気持ちに素直でありたい。




森田一弥

 太陽光発電コンペは明日が締め切り、大詰めを迎えている。山本さん、樋貝さんの手書きの背景画を取り込んだCDーRが読み込めず、もう一度キンコーズへスキャンに走るなどの手違いはあったものの、順調な仕上がりを見せている。相変わらずの徹夜攻勢にはなりそうだが、全員ふらふらになって提出前に判断力が無くなるのはまずいので、自分は一応家に帰って眠らせてもらった。
 パソコン四台を導入しながらの作業と、ここ数日の冷え込み対策にがんがんストーブを焚いているので神楽岡の貧弱な電気配線はパンク寸前である。ヤバイヤバイ。

 ■ 3月27日(木)

井上大蔵

今、28日午前5時30分だ。少し堅い話ですまないが・・・

 最近、我輩の周りで葬儀が多い。今晩も「通夜」に行って来た。親戚の関係で参列したのだが、全体的に我輩の家系は高年齢化している。この理由が大きい。この方の場合も、数日前に会った事があるが、その時はこんな事になるとは全く感じられなかった。それにしても人の一生はそういう意味では、急であり儚過ぎる。

 我輩のここ数年来(NPO法人職員この頃以降)の生き方は、『目一杯、生きる』事を信念にしている。←これが為に、昨年は精神分裂を起こしそうに成るのだが・・・。現在もこれに変わりはない。と言っても「太く短く」なんて言う、肩を張ったような事とは一線を隔す。何て言ったらいいのかな・・・。『今日を目一杯に楽しむ。だ・か・ら・・・(それが故に)明日も目一杯楽しめる』といった感じ・・・。自分の生死に関しては、何も考えていない。ただ、一瞬一瞬を大切に生きたいと思っているのみ。

 ■ 3月26日(水)

門藤芳樹

アッサラーム。
僕の旅も大詰め。後はカルカッタまで移動していくだけになりました(デカン高原を夜行で横断)。さみしいもんだ。ホーリーで足止め食らわなければ、もう1、2個所見れたのに。

recommended by yanagi の本「インド建築のシンボリズム」だっけ?本当に興味深く読ませていただきました。ホーリー中に読んでました。カジュラホ行く前に読破しとくべきだった!

ちょっと皆さんに質問。

1.白い服に胸につけた小さな赤いバッチ、ありゃジャイナ教信者? バラモンかと思ってたが、Jein Temple でしかみかけなかったような。

2.アーメダバードでのみ、サリーを着た男をみた。列車の中でも、手をパンパン叩きながら入ってきて、乗客(男性)の横に座って少ししゃべったら、みんなチップを渡す渡す!10分位で100ー150Rs稼いでおりていった。。。 何だありゃ??オカマ?? スター?? 見ちゃいけないもののような気がして、目も合わせませんでした。

それからキョータ様。久しぶり。ジャイサルメールも木は生えてるよ。砂漠に。だから学術的には「砂漠」ではなく「沙漠」だそうな。どっちにしても、偉大なるインドの前では、我々のチンケな常識なんか通用しないのさっ。パリタナはいった? すげーらしいけど。

戦争が早く終わりますように。。。では。





井上大蔵

『愛しの角打ち』T

いやはや、驚いた!23日に我が母について記したが、そこに出てきた「角打ち」についてHPの解説が付いている。HPの解説を読んだ。おおよそ、あっている。しかし肝心な部分がない。
ここでそれを述べるものではないが“まち”を構成する大事な要素である事は明言しておこう。よく“まちの要素”として『銭湯』が挙げられる。しかしこれで拾い切れない残りが、実はここにあるのだ。

我輩が“まちを構成する要素”について、興味を持ち出したのは、7年程前の事だ。専門学校に在学中の頃だったなあ〜。当時「京都アートカウンシル」と言う団体に所属していた我輩は、ある女性と『京都のまち』について話し合った事がある。アートの製作・啓発活動の団体であるこの集団の中で、京都芸術短大を卒業間なしの女史は、我輩と団体内でも年齢が近く気が合った。女史の卒製においての『地蔵盆の研究』が、我輩に“まちの要素”を考えさせる直接の切欠である。その後、女史とは「街中のパブリックアートの研究」を実地活動で共に行う事になる。

7年前の地蔵盆の研究から始まったその興味は、『地蔵盆』→『看板』→『銭湯』→『角打ち』→『川・橋』→『水(湧水U:学問的研究)』と続き現在に至る。ちなみに『水(湧水T:試飲)』は、高校生の頃に興味を持ち、当時京都市内全ての飲料可能な井戸水(名水)を飲みまっくった事を指す。今でも、これは続いている。そして女史は現在「NPO法人まぜまぜ」の代表をしている。

…話を元に戻そう。京都に『角打ち』は、もう存在しない。大阪は、まだ残っているだろう。しかしHPに掲載されている数を、大きく下回っているのは確実で、…しかしある。という状態だろう。ここで「ことわり」を入れておく。HPで“立ち飲み”とあるが、これは現在に見られる「立ち食い蕎麦」的な存在とは確実に一線を隔す。さて、…長くなったので、今回はこの辺で。気が向いたらまた書くョ。

 ■ 3月25日(火)

井上大蔵

今、午前2時45分。レポートを書いている我輩の部屋は、現在、天井裏が騒がしい!!ねず公が走り回っとる!いる事は以前より判っていたが、今夜は特にうるさい!!バタバタと。早く寝たまえ君達!!どっからか、侵入している。以前から進入穴を探しているが中々見つからない。ホント静まれい!!・・・『念力』送ってるけど効き目無いみたい・・・。

テレビにはビデオ「東京裁判」が流れている。我輩の好きなビデオだ。『帝国』に影響されて、久し振りに聞いている。近く、我輩の考えを記してみよう。

 ■ 3月24日(月)

山田協太

 今日は研究室で来年度の諸活動に備えてお仕事。来年度から研究室の博士課程在籍者は軒並み学位取得、教員採用でいなくなる。気がつけば私が最上回生である。ハードな年になりそうだ。
門藤氏のジャーナルを読んで、北インドに行った時のことを思い出した。ラーナクプルもよかったがジャイサルメールやアーブ山がとても印象的だった。ジャイサルメールでは、建物の装飾をゆっくりと刻む石工の姿を記憶している。ハヴェリは石造だと思っていたが実は木造だったのか。でも砂漠だぞ門藤氏?甘いターリーいつの日かお目にかかりたいものである。





井上大蔵

まったく個人の趣味の問題だが・・・

俳優:天本英世さんが亡くなられた・・・77歳である。急性肺炎との事。我輩の好きな個性派俳優である彼は、ある年齢層以下の人達にはピンとこないかもしれない・・・。しかしながら『仮面ライダー』の「死神博士」と言ったら知っている人もいると思う。その博士役の人である。昭和の「二十四の瞳」等にも出演していて、主に東宝映画が多い。最近では、平成教育委員会にレギュラー出演していた。

彼は途方も無いスペイン通で、スペインが絡んだ旅行番組等では、よく引っ張り出されたものである。何時ぞやの何気ない番組で、スペイン詩の朗読をしていた。今思えば、「ガルシア・ロルカ」の詩かもしれない。スペインに関する著書も幾つか出している。そんなスペイン好きの彼の遺骨の一部が、同国の川に流されるという。『好き』の局地であろう。
我輩が気にしている所は、「“せん”の細い彼の中から、“情熱”がスペインという媒体を通して表現され、にじみ出ているエネルギーそのもの」である。それはどこから来るのだろう・・・我輩も、好きな分野でここまで行き着きたいものである。それ程、スペイン化している彼であった。

もう少し、彼のそれに触れていたかった。ご冥福を祈りたい。

 ■ 3月23日(日)

門藤芳樹

[原文(ローマ字)はこちら]

チャティガールはもう送ったっけ??忘れました。3/26の昼までアウランガーバードにいて、ここのネット環境はいいので、それまではマメにネットがチェックできるので快適です。

ジャイサルメールにはデリーから夜行列車で行ったのだけど、ジョードプルあたりから砂嵐の中にいたので(しかも窓を開けてるインド人がいる…)砂まみれで到着しました。
ここから南(グジャラート州?)のターリーは甘いそうで、ためしに食べてみたら甘い。日本の甘口どころじゃなくアイスクリームのように甘い。おかわりしまくってたら胃がもたれました…。
ハヴェリをじっくり見てましたが、保存状態がよくないのと、部分的に基本構造は木造なのね??露出してた。木に直接しっくいを塗りつけてあの細かい模様を出している。

砂漠の半日ツアーに参加しました。
インド建築案内」に載ってるような近郊の建物が見れたのはよかったけど(内容はあんまり)建築じゃない人なら不満だろうな。ラクダも最初は楽しかったが、だんだん股関節が痛かった。仲良くなったドイツ人は50km離れたとこまでジープで行って、そこから誰もいない砂漠までラクダで行く3日ツアーに参加すると言っていた。
日本にいた頃は興味があったけど、インドに来たからにはもっとインドの建築を見たかったので、あんまり砂漠は見ないことにした。

アーブー山
ここはインド人も来る避暑地なので、ホテルの客引きがインド人に対してもしつこく勧誘している様は新鮮で面白かった。目的はもちろんジャイナ寺院。カメラ不可(no-possible)なので写真はないのがさみしいところ。スケッチもジャイナ教の信者が嫌がるし。深いもので10cm程度にもなる柱に刻まれた浮かし彫りは本当に圧巻でした。
一番入り口に近い四面堂が次の時代のラーナクプル(?)につながるとか?行きたいのだけれど時間的に厳しい。がっかり。パリタナ(ジャイナ教最大の聖地)も行きたかった…!

ちょうどアーブー山にいたころがインドのホーリーでした。観光地なのでまあおだやかなお祭りでした。外にも出られたし少しだけ色玉もくらいました。また、クリケット(インドで最も人気のスポーツ)のワールドカップも今やっており(決勝戦は3/23)そっちでもインド中大盛り上がり。試合に勝った日には花火があがります。決勝はインド対オーストラリア。
3月はずっとお祭り騒ぎらしい。

そんな感じです。ではまた。





井上大蔵

我が母について。

最近、彼女は38度の熱を出した。先週の18日(火)の夜である。その後一向に直る気配がなくて、むしろセキが出たりして悪くなる一方だった。一昨日程から回復の兆しが見えてきたが、まだまだ熱は下がらない。油断ができない。それにしても彼女は『強い』。昭和11年南区の『角打(かくうち)』の家に長女として生まれた彼女は、芯の強い女性だ。戦後の混乱期、女性が大学に行く事などあまり出来なかった状態の中で、彼女は昼『角打』を手伝いながら、夜は大学に行って、卒業している。専門学校も卒業している。現在それは共に大学に昇格している。カリキュラムは現在と異なるが、やはり『(家政や裁縫に関する)勉学を行う事』への執着心はすごいと思う。いわゆる、「頑張りやさん」である。そんな彼女が、25年振り位に寝込んだ。というか・・・寝なくてはいけない状態になった。のに・・・医者から言われているにのに・・・起きて何か仕事をしようとする。

今夜、神楽岡で読書会があった。『多分、彼女は起きていて、我輩の帰りを待っているか、若しくは何かガサガサしているであろう事』は容易に予測がついた。だから、切のいいところで前回に引き続き、家に帰ってしまった。予想どおり彼女は起きていた。『強い母』は尊敬するが、こういう時は気が気ではない。「寝ておけばいいよ」と言って、家を出てきているのではあるが・・・。子の心親知らずなのか・・・、親心子知らずなのか・・・。こういう時は、どうすればいい?誰か教えてくれ。

ホント・・・

 ■ 3月21日(金)

山田協太

 コンペで使う都市の立面図の下絵ができた。こちらの用途地域は××で、6m道路を挟んで向こう側が△△、斜線制限があるから建物の形はこうなって、63年までは100尺の高さ制限があったから…、と個別の要素を組み合わせてゆくと見事にそれらしい絵が出来上がった。

 現代に限ったことではないが、都市というのは法体系という言葉によるルールが物質化したという側面が非常に強い。私たちの生活の最も基本的な環境を構成しているのが都市であり、いかなる都市も人為的に構築された環境である。私たちは都市のルール=生存の様式とその歴史にもっと自覚的にならなくてはならない。
 最終的に立ち現れる形態や建築の物質としての側面はもちろん重要であるが、建築を、都市の基本的構成要素=生存の様式を決定している最も基本的かつ根本的要素として認識するなら、逆に、建築を自覚的に構成することで、自らの生存の様式を構築する強力な手段として利用することができるはずである。





井上大蔵

戦争が、とうとう始まってしまった!

我輩は、ブッシュ大統領の最後通牒の演説を見ていてどこかで見た光景だなと感じていた。よくよく思い起こすと、太平洋戦争開戦時の東条首相の開戦詔勅発表の光景とほぼ同じである。世界状況が当時と違うとはいえ、その当時の日本の思想的風潮と何が違うのだろう?戦争開始の表立っての理由こそ違いがあっても、その本質は、どうも類似している様に思えてならないのだ。ただ違っている確実な点は、「周到な計画性を持っていた事」が明確で、実行者が「圧倒的国力保持している事」であろう。だけに、よけいに厄介なのだ。
近々には、ラムズフェルト国防長官が、記者の「あの空襲は太平洋戦争の東京大空襲の時のようだが」との指摘を受けて、大変激怒したそうだ。「技術なども向上しているので、あの時とは別だ!」と反論したそうだが・・・。本当にそうだろうか?我輩の疑問点を挙げてみたい。

1.東京は天皇の膝元。日本人の精神に対してダメージを与える事も目的にあったはず。
2.空襲は、自国に既に制空権がない事を示している。
3.技術を優先するのであれば、物量に頼らなくてもいいはず。

とすれば、今回はイラクを除く外国(中東諸国を含む)へのデモンストレーションともとれてしまう。

読者はどう考えますか?

それと、日本も情けない。ここまで米国に追従する事は必要ない。どうも、我輩は日米安全保障条約の安保闘争の折に、何がしかの「きな臭さ」を感じる。いや、情けない。

 ■ 3月20日(木)

森田一弥

 とうとう戦争が始まってしまった。別にデモに参加したとか特別なことをしたわけでもなく、これまでに自分がしたことは反戦のチェーンメールに署名して転送したぐらいのものだが、いやーな気分だ。世界は我々個人個人の意志とは関係ないところで別の意志を持って動いていっているのだという、あきらめにも似た気分。いや、あきらめではないが、個人を超えたところにある大きな「意志」のようなものの存在を感じてしまった。世界中の「個人」が連帯したとしても止められない何か。




山田協太

 アメリカ・イギリスが遂にイラクに攻撃を開始した。非常に残念である。

 国連での説得が不可能であることがわかると、圧倒的な力を背景に独断で戦争を開始する行為は国際社会での対話による解決の基礎を根本から否定するものである。そして、ある国家が他の国家を不適格と判定し、解体・再構成する事態には正当性を見出せない。
 また、「仮定にもとづく話はできない」と判断を他国に委任した日本/小泉首相の姿勢は非常に情けない。日本は国際社会での信用を大きく低下させただろう。
 アメリカによるイラク攻撃以後、国際社会はどのような世界を経験するのだろうか。

 ■ 3月19日(水)

井上大蔵

今日、久し振りに京都市景観・まちづくりセンターへ赴いた。理由は簡単で、本年1月に発行された「京町家の改修」を購入する為である。山本七重さんに会った。それから大森靖子さんにも。特に大森さんとはホントに久し振りだ。1年位かな?

大森さんとは、京町家の外観調査よりも以前からの知り合いなので、元気な顔を見ると本当に嬉しいものだ。センター主催の外観調査の後、当時のセンターの寺田事務局次長が仰った言葉に印象深い一言がある。「この調査で、大きく(人生設計が)変わった人が2人いる。大森さんと井上君だ。」と言われたのだ。共に調査を行った事で、身辺があわただしくなる。我輩は翌3月に職を辞して古材バンクの会へ行き、大森さんも同時期、立命館大学の修士を終了してほぼアルバイト状況でセンターに入所された。
そして、我輩は建築を通した木材分野及びその関連(改修や京町家)へ、大森さんは住民参加型まちづくりへ。建築士としての活動ができない彼女は我輩を羨み、我輩は彼女のエネルギッシュなのところに大いに一目置いていた。互いに組織的立場は異なるものの、互いの立場から“やれる活動”を継続している自負がある。そんな彼女との関係である。
“住む”という事において、住民意識の向上は“まち”に対してであれ“家”に対してであれ、共にプラスに働くと思っている。だから、これで大森さんとはいつも話ができる訳だ。

そんな大森さんとセンターで会った。まるで、雑な言い方かもしれないが『戦友』のような感じがしてならない。だから、昨年は会わす顔が無かったのだが…。そんな大森さんがセンターで、何とか今でも頑張っている。我輩も負けてはいられないと思った次第である。これを機会に、食事でもいこうかな?

 ■ 3月18日(火)

井上大蔵

16日、左官組合の展示会を見にみやこメッセに行ってきた。しかし、雨だった事と時間が4時きっかりだった事が災いして、十分に見る事ができなかった。
森田氏のジャーナルを読んだら、さらにその気持ちが増してしまった。ましてや、浅原さんが最優秀賞を取られたとの事。是非とも拝見させて頂きたかった。ホント残念でならない。親方や一郎さんにも会いたかったし…。色んな意味で残念!





柳沢究

神戸での部屋探しの続き。これまで書かなかったが、なんでそんなことをやっているかというと、4月から神戸芸術工科大学で助手としてお世話になることになったからです。といっても京都の家は維持するので、えらいことに神戸と京都の二重生活になるのだ。詳しくはまた書きたい。

この日は三宮、元町界隈を重点的にあたる。河原町と比べるとさすがにだいぶん賑やかですな。満足のいく物件は見つからなかったが、かなり方向性が見えてきた。最後に行った不動産屋の兄さんが、相当ぶっちゃけた話をしてくれて面白かった。とりあえずインターネットや街頭の立て看板に出てる安すぎる物件は、かなりやばい、ということみたい。ゴキブリ大量発生とかヤクザとか、カビ異常繁殖部屋とか。

今日発売の「宝島」を確認したら、予想外に大きく掲載されていびつくり。しかしやばいのはそこに写ってる自分だ。見ていてクラクラしてくる。こっぱずかしいとはこのことなり。

 ■ 3月17日(月)

井上大蔵

最近、我輩の情況が急激に変わった!大きくは、次の2点である。

まず、その1
母校である京都建築専門学校を運営する、学校法人京都建築学園に勤務が決まった。この3月より勤務(嘱託)している。と言っても結構、「時間が作れる」事と伝統建築関連に強い本校は「講師陣の層も厚い」ので、我輩の建造物の修復思想の研究には、大いに役立つ…と、思う。

そして、その2
何と我輩、京都造形芸術大学の学生になった。と、言っても通信教育課程芸術学部歴史遺産コースであるが。通学課程の方を当初希望していたが、資金的な面やその他の理由により通信課程となった。しかし結果オーライである。時間的余裕と、資金軽減に大いに役立った。大学講師陣との連係は、個人的に既に出来上がっているので、後は勉学に勤しむのみ。「文化財の目」からみた『建造物の修復と京都』にメスを入れてみる予定である。

上記以外に、さらには建物の改修図面も引く事は欲張り過ぎかな−−−−−?




山田協太

 新しくノートパソコンを買った。NECのPCLC5505というやつ。NECの回し者ではないが、今一番コストパフォーマンスがいいと思われる。21万円くらいでPemtium4の1.8GHz、Radeon9000のビデオボードが載って、DVD-RWまでついている。買ったばかりのパソコンをいじって環境設定をするのは気分がいい。ついつい時間を忘れてしまった。27日から新居に引越し、念願のADSLを引けばようやく私も文明の恩恵にあずかれるというものである。
しかし、設備投資にどうしてこれほど資金が必要なのだろうか。特にパソコン、通信など、今やあらゆる活動に不可欠な設備は、誰でもが使えるように無料か、非常に安価にするのが筋ではないだろうか。こういう些細な要素の積み重ねから持てる者と待たざる者との技術、文化、知識等々の違いが生まれてくるのである。ブツブツ…
 神楽岡では、誰でもが自らの道具として自覚的に使いこなせる建築、生活環境を提供してゆきたい。



 ■ 3月16日(日)

森田一弥

 結局、左官作品展用の壁の見本は、銀箔が上手く貼れずに納得のいかない仕上がりとなってしまった。会場で、浅原雄三氏に聞くと、やはり独特の技術があったようだ。色々な情報が手に入り、聞いたことをそのまま鵜呑みにしがちな昨今、自ら手を動かして経験する中で学んでいくことが大事であることを改めて感じる。また再挑戦せねば。80近い出品作品の中で、最優秀賞は浅原氏の作品が選ばれた。さすがである。
 会場で作品を眺めていると、技術の高低ではなく、技術を使う方向が適当であるかどうかが作品の魅力を左右していると痛感。やさしい技術であっても、その仕上げの表情を生かすデザインがなされた作品が、一般の人にとっても魅力的なのである。技術を生かすも殺すもデザイン次第ということだ。それは、今の多くの職人さんに欠けていることであり、我々が出来ることのひとつであろう。しかしそれぞれの作品は各個人の創意工夫による技術に満ちていて、とても刺激的であった。まだまだ左官には出来ることがあるはずである。





柳沢究

午前中、神楽岡にてコンペの打合せ若干。
午後より、旅行中に知り合った友人が来京していたので、一緒に円通寺と河井寛次郎記念館を訪れる。

恥ずかしながら円通寺は初めて。あいにく雨のため比叡山は見えなかったが、おかげで人も少なく静かにじっくりと庭を堪能。修学院離宮の隣雲亭から浴龍地越しの眺めもそうだったけど、うまく切り取られた風景というのは、ものすごい奥行きと共に不思議な浮遊感を生むのだな。繰り返し訪れてみたくなるところ。

河井寛次郎記念館は2回目。寛次郎の作品もよいが、ここは家がよい。器から建築に至るまで一人の人間が徹底的かつ一貫して関わることで生まれる空間の迫力。京町家というよりは日本の伝統的住居の一つの頂点ではないかと思う。いわゆる建築のセオリーを無視した造りが多くて、そこらへんの素人っぽさと、けれども野太い感じが白井晟一を連想させると言ったら言い過ぎかな。こういう家に住みたい、と思う数少ないところだ。

 ■ 3月15日(土)

柳沢究

昼過ぎにみやこめっせの左官工芸展を見に行く。広い会場におもちゃ箱をひっくり返したような楽しさで、いろいろな左官作品が展示されていた。

第一の印象は「左官ってほんまいろんな事できるんやなぁ」。いろいろな仕上げを施した板が展示されているのかと思いきや、そのようなのはほとんどなく、巨大な塑像や箱庭、型抜き、絵画のようなものまで実に多様。壁だけが左官ではないのですね。
つづいての印象は「よくも悪くも素朴」ということ。森田氏と異なり技術をもたない者の感想だけど、「もっともっと面白いモノがつくれそうやなぁ」と思う。門外漢なりに(だからこそ)広がる夢はある。左官はほんと可能性を感じる。
群を抜いていたのは浅原親方による作品群。特にしっくいの平面にお孫さんの手・足型をつけた作品はよかった。たぶん職人さんの間では評価が分かれるとこだろうが、単純に、楽しい、というか「嬉しい」作品である。技術云々の次元ではなく、材料としての土の最も根元的可能性の一つが、作り手の気持ちがこれでもかと伝わる形で明快に表れているから。こういうの、好きだ。建築界における藤森照信氏の所業に通じるものがあると思う。
その後は京都駅でやってた京都六大学合同卒計展へ。十把一絡げにしたら申し訳ないが、こちらは左官展とは逆に個人的思いの先走りが多く、ちょっと食傷気味。もっと視野を広げようよ。





井上大蔵

時に、パソコンの話し。CD−ROMの読み込みには、光の反射でデータを読み込むようだ。CD−「R」と「RW」では、再書き込みの「不可」と「可」で違いがあるのは承知の事。どうもこの2つの間で、反射率も変わるようだ。当然、「R」の方が「RW」より率が高い。また、音楽CDの「音飛び」等は、CD面のキズにより起こる

実は、我輩のノート型PCが調子悪い。再セットアップする事になりこれを行う。その後、「RW」のデータは、読み込む事ができたのに、どうも「R」のプログラムが読み込めない。機種は、8年前の物だから現在とは比べ物にならないが、操作能力は今でも十分対応できる。ただ、「ROM」の読み込みエラーが最近目立つようになったのは事実だ。     
これが、反射率の関係なのか、キズの為か、はたまた機種が古いのか…。最近よく気紛れを起こすノート型に、少しうんざりしている今日この頃である。

 ■ 3月13日(木)

柳沢究

13時から北大路タウン内、北区文化会館にて、京都府土木建築部建築指導課が主催する「地震被災建築物応急危険度判定士講習会」に参加。主に建築士を対象として、地震で被害を受けた建築物の使用安全性を緊急的に判断する人材を養成する制度だ。いざ地震となったら、被災地に乗り込むことになる。講習というのはどうあっても眠たいものであるが、木造、RC、S造と構造ごとにわかれた危険度判定の目安は非常に勉強になった。建築に携わる人間として最低これくらいの判断はできないと、まずい。阪神大震災の風景は記憶の中で色あせない。

17時より京都CDL事務所にて運営委員会に参加。春のシンポジウム企画等について。
22時過ぎ帰宅。西邨組さんから反応があった。インターネットを介して広がった縁。嬉しいもの。




森田一弥

 15,16日の「みやこめっせ」での京都左官組合の作品展に出す「泥藍の大津磨き」の仕上げをする。「泥藍」は初めて扱う材料なので試行錯誤しながらの配合作業だ。コンパネを下地にした枠の中に中塗り土を15ミリ位塗り重ねて乾燥させてある。   
 今日はまず、その上に上塗りの下塗り材料である灰土(はいつち)を三回平坦に塗りつける。灰土の配合は中塗り土(三厘の篩で通す)4に対し石灰1、みじんすさ2ぐらいの体積比である。それに縦横斜めに鏝(こて)を当て、2.3時間すると表面に光沢がでてくる。
 上塗り材料は「泥藍」2、浅葱土2、石灰1の体積比で作ってみた。すさは細かい麻すさを使用。光沢のでた灰土面に上塗り材料(引土という)を二回塗りつけ、鏝を縦横に通してから一時間ほど水が引くのを待つ。
 一時間後、濡らした手ぬぐいで表面に水をやり、円を描くように回して表面にノロを浮かせる。ノロを鏝で全体に広げて、色を整える。徐々に硬い鋼の鏝に変えながら、鏝を上から順に横に通す。普通の大津磨きではこの段階で表面にバッチリ光沢がでてくるのだが、いまいち光沢が鈍い。恐らく泥藍に入っていた石灰の粒子が粗いのであろう。
 最後に先日買った銀箔を表面に押しつけてみた。この、金属箔の扱いも相当工夫が必要そうだ。少しの空気の動きでひらひら舞って、思うようにならない。
 これで丸一日の作業となった。もう一度やるなら、泥藍は細かい目の篩で裏ごしした方が良さそうだ。今日は、「大津チョロ磨き」ぐらいの仕上がり。仕上がりの色はきれいなので、門真でもどこかで使ってみたい。

 ■ 3月12日(水)

森田一弥

 今週末の15,16日に京都「みやこめっせ」で行われる京都左官組合の作品展に出品すべくシコシコと下塗りをしてきたが、上塗り用の浅葱土とその上に散らす金箔を買いに行く。
 まず浅葱土は、北大路烏丸の少し西にある左官道具材料店「山大」で購入。一袋730円、淡路島で取れた、京都では一番流通しているものである。今回はこれに沖縄産の「泥藍」で色を付けて、藍色の大津磨きをしたいと思っている。
 金箔はまず白川北大路の画材店「バックス」で探したが100枚単位でしか売っていないということで、お店のお姉さんに教えてもらった製造元へ行く。その「中塚金属箔工業」(寺町通り松原下がる)では、一口に金箔と言っても色んな種類があり、金閣寺に使われているものも見本の中にはあった。その他、白金箔、銀箔、銅箔などもある。金箔は手頃なもので10cm四方で100円ぐらい、銀箔だと23円、Fに直すとそれぞれ10000円、2300円である。材料費としてはこれは十分建築に使える単価だ。

 その後、大阪の京橋にて高層ビルの上からコンペプレゼン用の市街地の写真を撮る。掃除のおばさんにめちゃめちゃ怪しまれる。隣の読売新聞のビルに至っては入口で警備員に門前払いされて、まるで犯罪者を見る目つきである。京都ではいくら敷居の高い場所でも、なかなかこういう表情にはお目にかかれない。





柳沢究

13時半頃『京都げのむ』第3号(編集委員長:長野@竹山研)のグラビア撮影隊来訪。大城、永谷、長野、永澤の各編集委員に、カメラマンとモデルの女の子2人という大部隊。我が家の裏庭や通り庭を舞台に2時間ほどかかけて撮影。かなり本格的な撮影で仕上がりが楽しみ。

19時より神楽岡にてコンペ打合せ。サクッと終わらせた後、森田、山田、山本、柳沢のメンツでお好み焼きの「将月」へ繰り出す。結局帰ったのは1時過ぎだよ。

 ■ 3月11日(火)

柳沢究

7時起床。地下鉄、阪急、神戸市営地下鉄と乗り継いで神戸芸術工科大へ行く。若干の事務手続きの話をした後、齋木先生にあいさつ。午後から神戸での部屋探しのため、不動産屋数軒をめぐり物件を見て回っていたら、夜7時までかかってしまった。

見知らぬ土地での部屋探しは、旅先でのゲストハウス探しによく似た気分。立地、周辺環境、面積、設備、コストなどを天秤にかけながら、根気よくひたすら数をあたる。しかし迷いすぎても駄目で、これは、という直感があればすぐ決断を下さねばならない。さしあたり今日のところは様子見ということで、来週またチャレンジの予定。

不動産屋さんで聞いた話をいくつか。

探偵物語」や「傷天」(最近では「浜マイク」か)の事務所みたいなのに憧れ、オフィスビルの一室や旧居留地の古いビルで暮らしたい、という人は結構来るらしい。しかし現実にはああいう生活をするのは、相当金がかかるから難しいよ、とのこと。なんとなれば、繁華街の中にあるビルなどはいかに老朽化していようがもとの土地代は下がらず(一定の固定資産税がかかる)、ゆえに家賃も決して安くはならない。かつオフィスビルであれば、スケルトン貸しのスケルトン返しが基本であるから、設備をそろえるだけでたいへんなコストがかかるからだ。まあ、そうだろうと納得するが、とはいえそんな物件で安いのもきっとあるに違いないわけで。しかし不動産屋で出会うのは無理かもしれない。コネ世界の物件か。

神戸といえば、JRの三宮から元町あたりの高架線路下(いわゆるガード下)に連なるスペースも魅力的。そこらへんを聞いてみたら面白い話がでてきた。裏付けはとっていないが、不動産屋のホスト風兄さんの語るところによれば次のような話。
ガード下はもちろんJR(旧国鉄)の所有地なのだが、あの店舗群は、戦後の混乱期(その頃高架線路が建設)にあそこをスクウォットした人々が闇市を開いていたのが原点。それを国鉄がしばらく放って置いたら定借権が発生してしまい建築化が進行、現在に至るらしい。JRはあれらを撤去したいと考えているが、そういうわけでどうにもならないのだと。現在ガード下スペースは、又貸しの又貸しが重なってどこも4重貸しくらいの状況のため(おそらくヤクザとかからんで)家賃がくそ高くなっているとのことで(数坪で25万くらいとか言ってたかな)、住むにはちょっと厳しいようだ。うーむ、不思議な現象だ。
しかし、その権利もあと10年くらいで切れるらしい。そうなるときっとJRがきれーに整備しちゃうんだろうな。

 ■ 3月10日(月)

柳沢究

午前中に部屋の片づけ、たまっていた資料の整理などを行う。読了していない本(積ん読)は床にまさに平積みすることにしているのだが、それがだいぶ貯まって延べ高さ2mくらいになってきた。時間のあるうちに読まねば。

14時頃に京都新聞の岩本さん来訪。現在の家に住むに至った経緯、最近の学生の下宿のあり方の変化、京都の現代建築などについて若干の話をする。

20時頃にカフェ・アンデパンダンのライブ・パフォーマンスを観に行く。舞踏とジャズのセッション。肉体表現者の覚悟にはみならうべきものがある。

 ■ 3月9日(日)

柳沢究

月刊食堂」という雑誌の2月号にBAR和知と店主shunさんの独立開業奮戦のインタビューが掲載されている。立地の不利を乗り越える精力的な営業努力には感嘆するほかない。この雑誌、お店を経営する側からの視点で店舗のことがとりあげられていて、なかなか勉強になります。和知はとんとご無沙汰。久々に飲みに行きたいなあ。

神楽岡屯所会。『<帝国>』の読書会第2回。参加者は樋貝、柳沢、山田、森田、井上。哲学史的な話が多く、読解に難航したが大筋は捉えられたと思う。「国家」や「国民」「人民」という自明と思われた既成諸概念がその歴史的形成過程から解きほぐされ、どんどん相対化されていくさまは、なかなか心地のよいもの。

終了後は森田、山田両氏と3人で今後の神楽岡の活動方針などについて、3時過ぎまで話し込む。結構白熱して楽しかった。活動の理論的構造化が早急の課題。





井上大蔵

今日は、朝から大変眠い!昨夜、寝なかったせいである事は、十分承知している。だから、9時の食事後、30分程度寝た。起きて『<帝国>』第2部4章を再読する。やっぱ難し〜。でも楽し〜。

気が付けば11時30分。今日は、環境市民(自然住宅研究会)のセミナーがある日。スタッフとして参加している我輩は、13時のセミナー開始に向けて、12時に伏見区の「京エコロジーセンター」に集合が掛かっている。急行する。今日は染料についての実習及び講演。16時過ぎ頃に時間どおりに終了する。その後、センターにて「セミナーの今後の予定」や「研究会の4月以降の来期についての活動内容」を、検討・論議する。

18時過ぎ頃に散会の感じになり、神楽岡屯所会参加すべく移動する。途中、食事していない事に気付き、「どら焼き」をナカヌキヤで買う。少し大判なのに99円。19時頃神楽岡へ到着。山田氏に購入を依頼した「Dr.ペッパー」と共に、「どら焼き」を頂く。「Dr.ペッパー」最高!!
21時30分頃に読書会<帝国>の休憩が入ったので、切をつけて退く。自分の担当部分に、読書会のペースが到来しないであろう予測がついた事が幸いする。

22時30分頃より、明日(10日)の夜行う、友人の店の備品購入に関する事前の打ち合わせを行う。やっぱり気心の知れた者との打ち合わせは、夜が一番いい。じっくり話せる。23時30分過ぎに終わる。

こんな感じで、日曜日の1日が過ぎていった。この文章を書いている今は、11日午前1時50分である。テレビ画面には、8日(土)に録画した「国宝探訪(旧閑谷学校)」が流れている。後は、ちょっとした文章を一本だけ書き送って今夜は寝る事にしよう。
話は変わるが、滋賀県立近代美術館で棟方志功展が開催されている。30日までとの事。ぜひ行ってみたいが、はたして実現するだろうか・・・心配である。

 ■ 3月8日(土)

柳沢究

神楽岡にて鷹峯プロジェクトについて山本・生田氏との打合せ。用意した案を基本的に気に入ってもらえ、より具体的な作業へとすすむことに。林業、北山杉というキーワードが、通常の市街地では成立し得ない特異な有り様を導いてくれそうな予感。

京大卒計展を眺めての雑感。

個々のコンセプト、着想の面白さ/つまらなさは年代と関わりはなかろうが、社会的な提案が少ないなあというのが実感。建築のための建築、空間「だけ」をテーマとした建築ってのは、興味をひかれない。世界あるいは人間(じんかん)の中で建築するという行為の意味とは何か、という問いがもはや労力をかけた思考に値しない、なんてことはあるまいに。

も一つ気になったのは自身についてもあてはまることであるが、案をつくっている人間がそのアイディアの面白さに実はあまり気がついてないのだな、ということ。着想の機転が空間にあるにせよ、社会的提案にせよ、その面白さを最大限に生かすやり方となかなか結びついていないのが、もったいない。プレゼンの技術的巧拙というよりは、適不適の問題だな。はたから見てればよくわかるのだが。これは指導の問題でもある。

面白いな、と感じた案いくつか。一つは立方体の建築をその基盤の崖ごと太陽の軌跡によるスリットで抉った葬祭施設。空間体験型テーマパークともいうべき建築としてのエンターテイメント性が見事。それに先斗町に貯水施設を建築として提案するもの。貯水建築とは恐れ入った。消防とも複合したら面白かった。それにゴルフコース里山再生計画。ストーリー設定がよい。18ホールの中に流れとオチがあるとよかった。

 ■ 3月7日(金)

井上大蔵

イタリア足場論」について、我輩の立場から一言。

大変、楽しく読ませていただきました。
約1年半程前から、日本でもイタリアの都市景観について少しずつ見直されてきています。具体的に言えば、都市景観に基づく“まちづくり”を介した都市居住者の住民意識勉強会の形式から始まっているようです。京都では府立大の宗田先生が、その先行です。

 他方で、イタリアでは、絵画や古書籍・建造物等を含んだ『文化財』に関する意識が高く、日本との意識格差は100年程度と言われています。日本が後進です。個々人ではなく、全体としてですが・・・。1966年11月、フィレンツェ大洪水で被害を被った絵画作品を救済するために「ボボリ庭園」レモンハウスという会社が、修復工房と転化しました。1967年1月以降、この工房はウンベルト・バルディーニ、エド・マジーニによってフォルテッツァ・ダ・バッソ(城塞)へと移された。のち1975年には、フォルテッツァは輝石修復研究所(OPD)として、イタリア国家の誇る第二の保存・修復機関に生まれ変わっています。これが最後に掲げるパパラッツオ・スピネッリです。ちなみに第一は、ローマ国立修復研究所です。

 これと、足場がどう繋がるのか?実は我輩、イタリア足場論中に記載されている「足場に架けるシートに実物大のそこに当然ある、建物の写真をわざわざ転写してる」建物の事について工事を担当したローマ国立修復研究所の所長級の方より、昨年12月15日に直接お話を聞いた事があります。ローマ国立修復研究所の講演会がイタリア文化会館京都で行われて、その折に説明を受けた訳です。

“ざっくり”とした話から結論を言いますと、hpに記載されている通りです。要は、『覆い隠す事は、不自然である』と彼らは言っておりました。そしてそこだけが、隠される事で『見る事ができない(身近に無い)という精神的ダメージ受ける』との要旨を述べていた事も覚えています。どうもこれが延長して、足場の見せ方にも気を使っているようです。だから、彼らにしてみれば普通の事であって、むしろ日本の方が異様に思えていると思いますョ。また、足場の形状が美しいか否かは、その判断対象基準(物)が『建物』なのか『足場』なのかで変わってくると思いますが、我輩は彼らの根底に“美しくなければならないのです”と言う一種の“美風”があると思うのです。だから足場がその場所に“あった”、若しくは“しゃれた”物であっらいいとされるのでしょう。

 イタリアの建築、特に修復事情は建築と言う一つの分野ではカバーしきれません。文化そのものに対する『姿勢』が重要な位置をしめます。絵画の修復から始まったこの活動は、壁画と表裏一体の教会建築、そして町並みへと広がってきているようです。日本の私立大学の建築科を卒業された方で、設計会社の都市計画や設計をされた方が「修復」に関する以前からの思いを遂げる為、現在ローマで修復工房にて働いておられます。絵画等に偏らず、都市(建築)や土木についてもhpで記載されていますので、興味のある方は一度ご覧ください。「文化財とイタリア」

 話は少し変わりますが、イタリアでは絵画・古書籍等の修復は基本的に技術が伴えば行えますが、公共性の高い物に関しては「修復士」という国家資格取得者しか扱えません。伝統『技術』は持っていても『国の認定』が無ければ職に着けない訳です。このあたりも、伝統技術を持つ日本との意識の格差とも言えるでしょう。この資格についても、hp「文化財とイタリア」に記載さています。

 これは聞いた話ですが、工芸品の修復工房等は街中にかなりの割合であるようですよ。
日本でもイタリアの「修復士」の称号取得は可能です。これは、イタリアに本校を持つ修復学院の東京校がある為です。いかにアドレスを記します。

パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院東京校 ランビエンテ修復芸術学院



 ■ 3月6日(木)

門藤芳樹

[原文(ローマ字)はこちら]

タイは帰国時に降りる。まだ降りてない。

ダッカはね…町中がベンガル語でしか書かれていないので、さっぱりわからない。ツーリスト産業がまだないので外人はやっぱり珍しいらしく、よく囲まれた。写真を撮っても笑顔で返してくれる。出会ったツーリストはロンプラ持ってるイギリス人一人だけだった。半分くらいの人(子供)は英語がわかるので、リキシャの交渉も英語が通じるまで気長に待ってた。

今、デリー→アーグラー→カジュラホ→バナーラスと来たのだけど、オールド・ダッカの混雑が一番ハードだったような。大気汚染もひどかった。カーンもよかったが、high-securityだったので、自由には見れなかった。
街のあちこちの工事現場をみて、たぶんあまりかわらないテクノロジーだけで国会議事堂を作ったのだろうと思うと、なかなか感慨深い。病院はちょっと不衛生だったのでそれほど見てない。牛ちゃんはなるべく撮るけど、スライドフィルムよ?(※註:柳沢がモンドに牛の写真をたくさん撮ってきてくれと依頼した)

アーグラーでタージマハルの裏へ無理矢理連れてかれて、すこしボラれたけど、後はノープロブレムです。タージは全然よくなかった。正面の写真以上でも以下でもない。ツーリストが沢山いるだけで特別に感動はしなかった。カジュラホはよかった!!今度来るときはカジュラホinにしよう。

だいぶ先なんだけど、タイではバンコクだけにしようと思ってる。ゆっくりムエタイ見て、柳沢の言ってた遺跡を2つ見れば、2日なんてすぐだろう。

 ■ 3月3日(月)

柳沢究

ここ2、3日鷹峯のプロジェクトのスタディにかかりっきり。模型をつくり、基本プランをあれこれ検討…してたら風邪をひいた。ここのところ暖かくなったり雨が降ったり、気候が不安定だからかもしれないが、たぶんおそらく神楽岡が寒すぎるせいに間違いない。

今日は京大の卒業設計展と優秀賞の審査会があり、森田氏とあれこれ言いながら眺めていたが、詳細は後日にしたい。
というのは、コンペの資料探しでいろいろネットをかけずり回っていたら、下のようなサイトに遭遇してしまったもんで。いやあ、インターネットの時代はすごいですね。ほんとに実感しました。それぞれ、すごく参考にも勉強にもなるんだけど、なにより面白すぎます。あんまり楽しいので解説は省きます。ぜひ一見を。

・大阪の鳶の親方サイト「西邨組」 >> 「イタリア足場論」必読!!

・現場への愛に充ち満ちた投稿写真塾。その名も「現場自慢

・“現場は崖っぷち、女も崖っぷち”な「タイセン工業」
 >> 崖っぷち現場もすごいが、TVCM、もうだめです…。

この人たちと、いつか一緒に仕事してみたいもの。




森田一弥

 京大の卒業設計展で、柳沢氏と合流する。面白い計画というのは、やはり建物の条件の設定自体が面白いものであるから、図面や模型での表現の巧拙はあまり関係がない。
 全体を見ての感想は、自分が口で言っていること(コンセプト)と、自分の手がつくりだしているもの(建築)の関係は、皆さん見えているようで見えていないということ。手は正直だ。肉体の伴わない思想には、ついてきてくれないんだから。もって他山の石とすべし。(最近、教訓調が多いな)

 会場で、 WTCの跡地の計画にリベスキンドの案が選ばれたと聞く。案の内容をまだ知らないが、イスラム原理主義者によって破壊された資本主義の象徴を、ユダヤ人であるリベスキンドが鎮魂するという図式は、ちょっと穏やかじゃない話である。坂さんの案も残ってたというが、そういった図式でしかモノを見られない人達から見れば、「ノコノコ日本人がやってきて、何を講釈垂れよんねん!」てなもんだろう。「建築」はまさしく「政治」である。

 ■ 3月1日(土)

森田一弥

 大変な土砂降りの中、建築家渡辺豊和氏の京都市文化功労賞受賞の祝賀会に出席する。京都市に作品のない渡辺さんがなぜ文化功労賞なのか、よく分からないがそれを肴に色んな人と会うことができるのはいいことである。

 会場に入ってすぐ、乾杯のビールを注がせていただいたのは建築雑誌の編集長を歴任された平良敬一氏であったと後で知った。行く気もなかったのに二次会までヒョコヒョコついていってしまったのも、チャーミングな長谷川逸子さんに「行きましょうよ」と誘われてしまったからである。建築家はまず、チャーミングでなくてはならないと知る。隣に座った宮本佳明氏と遠藤秀平氏は、作品の印象とは違って穏やかな人で、取っ組み合いならいけるかなと妙な納得の仕方をした。恐らく酔っていたからだ。しかし建築家は、酒の場での印象も大事である。
 造形大出身の富家君ら懐かしい面々もいて、名前しか知らなかった方々ともお会いすることが出来て、いい夜であった。


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