神楽岡工作公司
JOURNAL
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2005年12月〜



 ■ 1月30日(木)

山田協太

 大学では卒業設計、修士論文の締め切りが間近に迫っている。4回生と修士2回生は寝る間もなく研究室に監禁状態である。そのあおりを食って私も最近は留学生の論文の文法・単語チェックに追われている。それはそれとして、明日は井上氏とともに泉佐野の現場に行って屋根裏の小屋組の確認をして、屋根補修の状態を見てくる。

 ■ 1月29日(水)

森田一弥

 今日の神楽岡は寒い。昼を過ぎても室内の気温は0度のままで、ストーブにへばりついて作業をしている。吹き抜けもつくってしまった今、建物全体を温めるのはあきらめていかに自分が作業できる環境をつくるか考えた方がいい。先日16日、井上さんと樋貝さんも一緒に現地に行って建物を再実測してきたので、門真の方も本格的に計画を練りだした。町家の改修では出来ない空間を作り出せればと考えている。ただやっぱり色々なことをするには予算が厳しいかな。
 現場が動いていない時期は、やらなくてはいけないことはあってもそれなりにのんびりと日々を過ごしている。買ってあった本を読んだり、ご無沙汰している人のところへ顔をのぞかせたり、そうやってうろうろしている間にこそ自分のやるべきことが見えてくるものだからだ。丹羽哲矢氏の町家の改修現場は、建物の要らないものが取り除かれて、とてもいい雰囲気になってきている。大工は長矢君、左官は土橋君と同世代の活きのいい職人がパートナーだし、こういう場所から新しいものが生まれるのだろうと思わせてくれる。場所は左京区の鹿ヶ谷通りの「法然院町」のバス停前の家。一度訪ねてみられることをお勧めする。

 ■ 1月27日(月)

井上大蔵

昨日、紫織庵に見学に行ってきた。何度か訪れている場所ではあったが、事細かに見るのは初めてであった。その前の日には、辰野金吾の和風木造建築物を見た訳であるが、これは別の機会に書いてみたい。事の次第は、
1.泉佐野の物件に関しまず大きな敷地を持ち、住宅である事
2.主に平屋(紫織庵は2階建)であり、茶室や坪庭などを付帯している事
3.蔵もしくは洋館を配し、“建築家”の手になる事
の要素を持った建物を見ておきたいと思ったのが起こりである。この為、山田協太氏との同行は以前より計画していた。

これとは別で、我輩が関わっている草津の物件に関して相談者の1人が外国人向けの日本語教師をしており、生徒にイタリア系イギリス人がいてこの外国人が何と海外の建築業務に携わっていて「日本の木造建築物が見たいと言っている」との連絡を教師を通して受けていた。今回の見学は、何と!これをドッキングさせてしまったのだ。しかもどうせ、わざわざ行くのだから・・・との思いから広報もした次第である。これ以外の計画性が、まったく無い見学会であった。

参加者は、山田協太氏・日本語教師の山口吾往子さん・Rob Di Marco(ロブ)氏・我輩の4人。洋館部が武田五一、和室部は数寄屋大工・上坂浅次郎の手になる紫織庵をたっぷり3時間位かけて見た。その後、先方の希望によりラトナ・カフェに行く。道々、山口さんと活動について語り合った。英語がa littleしかできない私にとって、山田協太氏の存在は大変ありがたい事であった。ここに感謝の意を表したい。

 ■ 1月24日(金)

柳沢究

以前神楽岡で少し話したことがあるが、去年南インドに行って以来興味を持っていたコーラムkolamの話が、最近なんだかいろいろと展開している。仕掛け人は生粋のインド・フリーク、浅野哲哉氏。コーラムについては話すと長いのでこちらをみてほしいが、このきわめて単純な法則の中から、複雑多様・無限の軌跡が生み出されるシステムの美事さは他に例をみない。
僕の主たる関心はそのシステムの基本構造、すなわち軌跡の動きを規定するルールにある。ヴァナキュラーな集落や植物など、ある種の集合体がもつ不思議な美しさは、全体としての造形の問題ではなく、個々の要素(部分)の基本形とそのヴァリエーションおよびそれらの関係の仕方=ルールの体系にあると思う。これは複雑系科学における基本的な考え方で、いまさら新しいものでもないが、そのような複雑な集合の様態に、建築にかかわるようになった初めの時から何故かずーっと惹かれている。このような関係が建築のスケールで果たして成り立つものなのか、はなはだ疑問はある(建築は全体に対して部分の比率が大きすぎるのだ)。原広司がすでにその限界を示しているかもしれない。しかしそれはさておいても、コーラムは美事なデザイン・システムであり、興味は尽きない。

現在いろいろ展開している、というのはこのコーラムの軌跡をFLASHをもちいてアニメーション化し、音楽(口琴)や光とあわせた、VJ的なライブ・パフォーマンス(インスタレーションというべきか?)に発展している、らしいのだ。会場がもっぱら東京のため僕はまだ見たことないのだが。こういうのが好きな人、やってみると面白いかもしれません。コーラムに関心を持った人、一緒にいろいろ考えてみませんか。

ところで最近、浅野氏主宰のメルマガ「インド探検・パットラ便」にコーラムや南インド関係で顔をだしてます。暇なときにみてください。

 ■ 1月23日(木)

井上大蔵

最近になって、建物の改修やら住宅研究チームへの参加の誘いが多くなった。人と飲んでるウチに誘われた事もある。そんな中に、環境保護活動の関係で知り会った友人から先日紹
介されて、建物を改修するケースも出てきた。具体的には、滋賀県K市で活動を開始しようと考えているボランティア活動グループのケースがそれである。『とりあえず、話だけでも聞く』事になり、会ってみた。

コンセプトとして、自然野菜を使った本物の美味しさを提供できる「ごはん屋」さんを出したいとの事。「会う数日前までは、現在空家であり使用予定の物件も決まっていたのだが、近日になって他の借受け主が現れたのよ」と言われ、なんと!我輩が励ます立場に・・・
そして、一緒に探してあげようか・・・!?とも、思ってしまった。建築士としての職務範囲を超えた瞬間である。

その日以降、ほぼ毎日のように連絡をとっている今日この頃である。(これって営業活動になっちゃうのかな・・・疑問?)

 ■ 1月21日(火)

井上大蔵

昨日(20日)の夕刻、久しく人間関係で気分のクサクサした日だった。ツンツンした自分の心が嫌いだったので、吹っ切る為に昨年末より足の少し遠のいていた店に食事に行く。以外に夜の外食をしない我輩にとって、大変珍しい店である。以前より、店の拡張移転の相談を軽く受けていたので、どうするかこれも気がかりだったのである。

食事をする内、客が増えて我輩とオーナーを含めて5人になった。するとこの4人(オーナー除く)、それぞれ初対面なのに共通の話題で話が盛り上がり、時間を忘れてしまった。1人が26時頃に帰り、1人気が27時頃に潰れて寝付く。気付くと28時30分。最後に残ったのが、オーナーと我輩と74歳のオヤジ。深夜12時で閉店したオーナーは、結構飲んでいた。

オヤジは、適度に。我輩は全く、一滴も飲まなかった。だけど皆、楽しい!おかげで、店の話は殆ど全く進展しなかった。これでいいのか?

 ■ 1月20日(月)

森田一弥

 朝一番に丹羽哲矢氏の町家改修の現場をのぞく。左官屋の土橋君が土壁の「こそげ」(痛んだ部分をはがす作業)を指導してくれて、丹羽氏を始め何人かの友人が「こそげ」作業を開始していた。この後、土橋君をはじめとする左官職人が入って仕上げていくことになる。大工工事は先日「銀閣寺の家」を見に来てくれた諏訪出身の大工長矢剛氏が引き受けてくれることになったらしい。

 神楽岡で不要になった畳16畳分を畳屋さんに引き取ってもらう。引き取り代一枚700円。その後、柳沢氏とコーナンへ行って、大きな灯油ストーブを購入。昼飯は北白川の京都造形大学前のバス停を北西に向かう道沿いの「おしゃれ〜」な店で昼食をとる。野郎の客は我々2人のみ。「」の仕事を企画して自分を引き込んでくれた、建築家の馬場徹氏設計の店舗付き住宅である。

 夜は柳沢、山田、門藤、水谷各氏と、久しぶりのアジェの焼き肉。腹一杯に食べた後はe-fishに。あの有名店に来るのが初めてという輩が約二名。有名な椅子は前回来たときはよれよれのボロボロになっていたがもう無くなってしまったのが残念。





柳沢究

神楽岡で電気配線をちょこちょこといじくって、照明(蛍光灯)をとりつける。かねてから残っていた町家の住宅っぽさはかなり払拭されたものの、事務所をとおりぬけて、工場(こうば、と読む)の雰囲気に近づいてしまった。

昼間、森田氏と野郎二人連れで行ったのは「A WOMB」という店。南欧にありそうなマッスな外観とダンスホールになりそうな内部空間が、京都にあって周囲との微妙な違和感を発している。

晩は去年の夏くらいから、ことあるごとに行こう行こうと言いながら行けずじまいであった「アジェ」に唐突に繰り出す。そのあとは上に書いてあるように、焼肉スモーク・キムチ仕上げの野郎五人立てでエフィッスの一角に陣取る。初めて訪れたのは私。この日はおさーれな店に二件も行ってしまった。限界である。もうしばらくいけない。




山田協太

 泉佐野の改修工事に関して先方に連絡を入れたが、話がこじれてしまった。こちらが知らないうちに何と屋根の補修が始められていた。結局、今後は重要な決定を行う場合はこちらに事前に連絡すること、工事の進め方について早急に打ち合わせをすることを確認して話は落ち着いたが、先方とのコミュニケーションの取り方に関して、こちらにいくつか反省しなければならない点があった。当然のことであるが、コミュニケーションは相手と直接会って話すのが基本であるということと、会話の中での駆け引きの重要性を実感した。本日はこの件に関して、井上氏ともども森田氏から厳しい批評を頂いた。

 ■ 1月19日(日)

井上大蔵

こんにちは。初めてジャーナルに記します。少しドキドキしています。よろしくお願いします。

2日程前の事になろうか、美術系のアートに関するボランティア活動をしている知人から、ある連絡を受けた。内容は、「2月に滋賀県の瀬田駅近辺の新築のビル(?)の外壁にイベント活動として絵を描く」との事。何でも9m×6m一面との事なので、3階建て。子供を中心とした英語塾の建物」らしい。書く人が足りないので、広報して欲しいとの事だった。ありとあらゆる、そっち系の知人に声を掛けてみた。面白そうなので、我輩も行く事を快諾する。

それにしても、最近、金にならない面白い話が多すぎる。

市民とアートをつなぐNPO法人「アート・プランまぜまぜ」では美大生が中心となり壁画制作を行っています。現在、学生の手によって原画ができあがりました。
一緒に現場で制作をしてくれるボランティアスタッフを募集します。

      ★場所 :JR瀬田駅(滋賀県)近く 
    ★建物:3F建て 子供を中心とした英語塾
  ★期間:2003年2月2日〜2月28日
★連絡先: E-mail  mazemaze@mui.biglobe.ne.jp

 ■ 1月18日(土)

森田一弥

 神楽岡の改修第二弾。山田協太と一階部分の壁を落とそうと本棚や床の養生を始めたら、この機会に二階の床も解体してしまおうということになり、ものの1時間ほどで二階の床三畳分を解体してしまった。天井裏にはネズミのミイラ死体があったりしたが、解体もかなりの場数をこなしつつあるので最小限のほこりで効率よく解体終了。
 ちょっと遅れてきた柳沢氏も加わり、道具箱などをきれいに整頓した。吹き抜けのおかげで一階がずいぶん明るくなり、「神楽岡カフェ」が開業できそうな感じである。





柳沢究

金・土と鷹峯の打ち合わせを行う。先週からたびたび降っていた雪のため、鷹峯奥地への道は結構雪が積もっており、バイクでの到達は現在不可能。車で迎えに来てもらう。改修計画に関しては、法的な問題はなんとか回避できそうである。木工、陶芸、紙漉等の作家が自由にいろいろなワークショップを開けるようなスペースと、訪れる人が落ち着いて団らんできるサロンのようなスペースを、という話に。とにかく法的に建設・改修が問題なくできる方向でまとまったので、ようやく絵を考える段階にすすめることになった。

その後、神楽岡の改修に駆けつけたら、時すでに遅し、2階の三畳間が消滅していた。吹き抜け部分のエッジは、畳の側面がそのまま見える仕上げである。ありえない。

 ■ 1月17日(金)

森田一弥

 銀閣寺の余った左官材料で、我が家の壁を塗る。ひとまず二階の三畳間を黄色と白の大津壁で仕上げる。

夕方、樋貝さんが昨日の庭の図面を清書して持ってきてくれて、ついでに庭のカエデの木を見栄えのいい場所に植え替える。もともとの木自体が見栄えのいい木ではないのでどう植えるべきか、ずいぶん相談したが、えいやっと決めてしまった。





柳沢究

晩、世界旅行中に知り合ったフィレンツェ在住のMさんが年末より帰国していたので、その他何人かのイタリアつながりの友人とともに、大坂で会う。店はMさんの地元、阪急沿線随一のコアなスポット、十三駅前すぐにある「十三トリス」だ。十三トリスはトリスバー … 戦後発売されたサントリーの大衆ウィスキー「トリス」(やすい、うまい、と吉野家のりで売られた)をメインに飲ますバーで、昭和30年代に隆盛を極め全国的に展開した。いまのおされカフェに近いのりだ … の数少ない生き残りである。「あしたのジョー」で、ジョーが力石を殺してしまった後、繁華街をさまよいあるくシーンの背景などに登場していたりする、昭和の30年代を構成する重要ファクターの一つである。しかしその後、ビールの台頭とともに衰退、現在一部で絶滅が危惧されている。

十三トリスは昭和31年(1956)開店、当時のインテリアをほぼそのまま残しており、その意味でも貴重な存在。カウンターの天板前面にはバーの原点、真鍮の手すり状の棒(bar)が設置(最近の店でこれがついてるカウンターはほとんどない)。店のプランは客席約1m、カウンター約0.5m、カウンター内約1mの間口約2.5mに奥行きが20mほどの細長いもので、両端にそれぞれ街路からの入り口を持つ。カウンターの両端には向かいあわせでテレビが置かれ、この細長さとあいまって合わせ鏡の空間のように錯覚させる不思議な店内である。天井や壁は触れるとめりこみそうなほどにタバコのヤニを吸着し、もともと何色であったかの判別はできない。

創業者であるおばちゃん(推定年齢70歳超)が初心者にもフランクに人生相談。メニューにある料理を頼めば「そんなん家でできるやん、700円も出すのもったいないで」と諭してくれる、良心的なお店である。山岡士郎や海原雄山に何かと批判されているサントリー・ウィスキーであるが、この日はじめて飲んだ「トリス」は、店の雰囲気もあってか、悪くないものであった。

 ■ 1月16日(木)

森田一弥

 山田協太はここ数日神楽岡で「泉佐野」の模型造りに精を出している。全然手伝えなくて申し訳ないのだが、今日は昼から井上さん、樋貝さんと「門真」の再実測に向かう。主に小屋裏と基礎の配置、高さ、庭の配石、植栽等を記録する。この実測資料を基に、今月末までに店舗の計画を立ててしまう予定。

 ■ 1月15日(水)

森田一弥

 京都三条通り麩屋町に店舗を出したいとのメールが舞い込む。夕方時間があったので、現地にて話を伺う。かなり予算が厳しいし、カフェを併設した服屋さんという内容がビジネスとして成り立つのかどうか、心配だ。

久しぶりに「たかはし」に顔を出した。

 ■ 1月12日(日)

森田一弥

 夜、今年初めての神楽岡会。磯崎新、石山修武が審査員の太陽電池を使った建築、プロダクトのコンペの打ち合わせ。参加者は井上、水谷、山上、樋貝、津田、森田、山田、柳沢。二、三年前の「環境に優しい建築」コンペ等、こういったテーマのコンペであまり面白い結果を見たことがない(というか全然つまらん)ので、無視したいところだが賞金の高額さと、審査員の顔ぶれから参加することにした。今日は色々思いつくままに話をするブレーンストーミングだけで、来月から本格作業に入る予定。早速先日読んだ「人間講座」のダイソン球の話をしたが、コンペの狙い所とはあまり関係はなかったかな。

 ■ 1月10日(金)

山田協太

 年が明けてもうだいぶ経つが、明けましておめでとうございます。正月は新潟に行った後、東京を経由して京都に戻った。新潟には田舎があり時々寄るのだが、今回街をはじめてきちんと見た。

新潟は江戸末期、日本が開国したときに最初に設けられた5つの開港地の一つである。本格的に開港地として整備されたのは明治に入ってからのことのようである。街は、現在は埋め立てられてしまったが、日本最初の公園である白山公園を起点に延びる3列の運河を軸として構成されている。白山公園は護国神社である白山神社を核にして形成された公園である。公園を挟んで神社と反対側には明治時代に建てられた、木造擬洋風の旧新潟県議会の建物が建っている。運河に挟まれた帯状の土地は、白山神社に近い方から一番町、二番町と信濃川の河口に向かって順に町割りがされ、町は運河と平行に並ぶ短冊状の敷地が背中あわせになってできている。中程の五番町、六番町あたりではバックレーンが見られたので、はじめはバックレーンが設けられていて、短冊状の敷地はバックレーンを挟んで二列に並んでいたのかも知れない。

 短冊状の敷地には二階建で切妻屋根を持つ妻入の建物が奥へ向かって連なって建っていた。建物は板張りで、日本海側の漁村で見られる形式によく似ている。当時は運河に沿って三角屋根の建物がずらっと並んでいたはずである。通りに面する部分は平入りの建物の方が多かったので、あるいは通りに面する建物だけは平入であったのかも知れない。これらの建物は商人の倉庫として使われていた。建物が切妻妻入なのは倉庫としての適正を考慮した結果だと考えられる。平入の場合は奥行き方向に屋根をのばして空間を確保するので、奥に行くに従って天井高が低くなり、増築できる面積に限界がある。妻入ならば細長い敷地に対して制限なく増築をすることが出来るのである。しかし、妻入の建物の場合、雨水の処理に難点がある。雨水は屋根を伝って敷地と敷地の間に落ちるので、敷地の境界部には排水のため一定の空地を確保しなければならないのである。

 並行して走る運河によって街区を形成し、運河に面しては細長い妻入の建物が並ぶ構成は、アムステルダムと類似点が多い。日本は鎖国時代西洋の知識を唯一オランダから輸入していたわけだから、ひょっとするとオランダの都市計画が参考にされたのかも知れない、などと夢想してみた。

 建物と建物の間に自動的に隙間があくので、後にはそれを路地として利用し、敷地内部に長屋が多数形成された。大正から昭和初期にかけてのことと思われる。そんなこんなで現在でも新潟では建物と建物の間には数十センチの隙間があり、薄っぺらいヨウカンのようなビルが歯抜け状に並んでいる。新潟は函館、横浜、神戸のように開港地の雰囲気を感じさせる立派な建物はほとんど残っていないが、開港地建設時の街割は現在でも新潟の景観に影響を与えている。たちの悪いことにむしろマイナスのかたちでっ!繁華街でも排水路が変化した狭くて薄暗い路地が多く、このへんが新潟の治安の悪さを助長しているのかも知れない。
 
 少し言い過ぎたのでここからは新潟の名誉のために弁解。運河の中程で、これと直交して幹線道路が信濃川対岸の駅から引かれている。現在ではこの万代通りから白山神社にかけての地域が繁華街となっている。万代通りを越えてさらに運河沿いをすすむと、昔の繁華街が広がる。傷んではいるが、昭和初期の街並みが丸ごと残っている。庇を連ねてつくったアーケードは、1822年のラッフルズのシンガポール都市計画が巡りめぐってたどり着いたものかも知れない、といったら言いすぎだろうか。華やかなりし日を思わせる、かつては電飾で飾られていたであろう木造建築たちからは開港地の意気地が感じられる。昭和初期の街並みがこれほどきれいに残っているところはそう多くないだろう。これを保存してやれば非常によい観光地になるはずである。それだけに、この地域の目玉である、レンガ造の銀行が今まさに取り壊されているのは非常に残念なことである。

 運河の終点には旧税関の建物が残っている。擬洋風で、江戸時代に建てられた税関の姿をとどめている唯一の建物。重要文化財に指定されており、現在は文化資料館となっている。休館のため中を見ることは出来なかった。堀はなくなったが、東堀、西堀をはじめ、船場、入船、艀などの地名は現在でも数多く残る。新潟は今までも開港地の雰囲気を感じさせるいい街である。




森田一弥

 神楽岡で仕事を始めようと机に向かうと、「銀閣寺の家」の施主さんであるH氏から電話。工事のお礼の電話かなと思ってでるととんでもない、大変なご立腹で、なんでも昨年末に写真撮影のために柳沢氏が借りた「銀閣寺の家」の鍵が年が明けて約束の日を過ぎても返却されないという。当の柳沢氏は大阪の友人宅に居て、すぐには返しにいけないという有様。森田さんにも柳沢君を紹介した責任があるだろうといわれ、自分が頭を下げる羽目になった。人によって価値観は本当に多様で、今までの信頼関係が一気に無になってしまう。自分も含めて良い経験になったと思うしかない。

 まあ、こんな日もあるだろう。

 ■ 1月8日(水)

森田一弥

 昨日撮った模型写真を午前中に現像してもらい、一乗寺集合住宅の企画書に入れる。模型は正月休みの間にシコシコ仕上げた。事務所は尋常ならざる寒さである。仕切らしい仕切がないので石油ファンヒーターの熱も空しく消えていく。朝の室内気温は0度、ヒーターをつけて7度ぐらいである。今日はそれでも幾分寒さは和らいでいるので市原の施主さんの家まで、ルームマーケットの平野さんとバイクで走った。

 打ち合わせが始まると開口一番、現在の建物に入居しているテナントの立ち退き問題についての話になり、色々と大変らしい。その他にも解体にはいるまでの現状の建物にかける保険の問題など自分の知識では対応できない話題も多く、平野さんがその場にいてくれてずいぶん助かった。実際の建物の計画についてはずいぶん興味を持ってもらって、模型もあるので色々と細かいチェックも入ったが、大きな問題もない。実際に計画が動き出すまではもう少し時間がかかりそうだが、楽しみに待つことにしよう。

 下鴨の喫茶店でブラジル料理の豆の煮込みフェイジョアーダを食べて、平野さんが改修中の六波羅蜜寺近くの民家を見せてもらってから帰る。

 ■ 1月5日(日)

柳沢究

帰京。年賀状やたまっていたメールの処理を行った後、片桐氏のやっている北山の民家改修現場に遊びに行く。片桐氏は精華大出身で仲間とカフェ・ギャラリー"e-d."をオープン、そのかたわら古材バンクの井上さん(大ちゃん)の支援を受けながら、北山の結構大きな民家を3年がかりで仲間と自力改修している剛の者だ。徹底したローコストをすさまじい労力と繊細な技術で実現している。彼らはいわゆる建築系の人ではなく彫刻、オブジェ製作などが専門であるため、手先の技術はわれわれよりずっとある。老朽化し波うった土壁にスペーサーをかまし1mmの空きもなくプラスターボードを貼り、パテで仕上げるテクはなかなか真似できない。

片桐氏の現場を訪れたの主目的は、彼らが各所より収集した古建具を検分することであった。さまざまな板戸や夏建具、巨大なガラス戸などが集積されているが、改修費用を捻出するためにそれらを売り払うというので、その前に、と唾をつけにいったのだ。

 ■ 1月3日(金)

柳沢究

12月に完成した鉄板の看板の設置を行う。うっそうとした植え込みの庭に設置したため、施工作業は結構てまどったが、案外安定するものである。設置後はもう、周囲の木々になじみすぎなくらいなじんでいる。この日降った雪のため、はやくも表面にはうっすらとした錆がうかんできた。
  
午後は横浜駅周辺で、念願のノートパソコン、マックのパワーブックG4/550を購入(型落ちでだいぶん安くなっていた)。

 ■ 1月2日(木)

柳沢究

31日に大急ぎで年賀状をつくり、それをもって2年ぶりの帰省で横浜へ。年越しは電車の中であった。実家に帰ったら見知らぬ韓国人がいた。4月から横浜国大の研究室で博士課程をめざす李さんが数ヶ月ホームステイしていたのだ。専門は都市計画。ソウル市立大で修士をとり、3年の徴兵期間ののち来日。折り目正しいまじめなお兄さんという感じであるが、酒はよく飲む。今日は中華街で食事をしたが、去年重慶に行ったときに覚えた白酒(この日飲んだのはたしか「五穀醸液」というやつ)を一本あける。香りがたまらん。
しかし、この中華街がある石川町周辺というのは、独特である。中国人に限らず町ゆく人に外国人が多い。白人も東南アジア系も多いが結構目立つのはインド系。東京の大久保など、これからの日本の大都市ではこういったエスニックタウンがどんどん発展していくだろうが、横浜なら石川町、黄金町・日ノ出町界隈じゃなかろうか。もし将来的に横浜に帰ることがあるとすれば、ここらへんに居を構えてみたいもの。

昼間横浜大桟橋フェリーターミナルを見に行く。寒かった。その後大学の同級生村井と会い、喜多見の奥村の現場に遊びに行く。駅前からの存在感は秀逸。完全完成は5月ということであるので細部のレポートは控えるが、すでに荷物が運び込まれ一階ではタバコ屋が営業、生活感がでまくっていてよい感じ。
    
大部分できあがっているのだが内装の細かいところはまだ未完成。現場が遠いため隔靴掻痒な監理のむずかしさに悩む奥村氏であったが、その気持ちはよくわかる。「銀閣寺」では技術的な制限はあるもののすべてを完全に自分一人で把握でき、細部に至るまで現場で決定できたのは強みでった。今後はそれをもっともっと大きなスケールで実現できるようになりたいと思う(セルフビルドに限らず)。

 ■ 1月1日(水)

森田一弥

 年が明けてしまった。昨年の正月は富弘美術館に追われて正月どころではなかったから、今年は少しはゆっくり出来そうである。ただ家の居たら居たで子供の相手で追いまくられ、息つく暇もない。まだ仕事をしている方が、勝手知っている分、ましかも知れぬ。我が家は築80年ほどの家を借りているのだが、どうも我が家の改修は後回しになりがちで、色々と不自由している。引っ越しする前に一通り壁を塗り替えたが、家中土壁ばかりというのはやはり陰気で、明るい色の仕上げの上塗りをしたいのだが、なかなかその時間がない。時間があっても小さいのがうろうろしていてそれどころじゃない。

 一年の抱負 「今年は我が家をもっと住み良くしたい。」


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