神楽岡工作公司
JOURNAL
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2005年12月〜



 ■ 4月28日(月)

森田
森田一弥

昨日夕方に淡路島の津名町着。久住誠氏が迎えに来てくれて、夜は「久住章のゲストハウス」にて久住有生、誠、ゲストハウスを管理している荒井さんと歓談、激談。そのまま泊まる。

朝はゲストハウス近くの海辺を散歩した後、久住左官の倉庫の中でいろいろと壁のサンプルを見る。有名建築家の作品で見覚えのある壁のサンプルが無造作に、しかし整理されて置かれている。「ホテル川久」で使われた人造大理石のサンプルは特に迫力がある。平米単価50万ぐらいだろうか。いつか使ってみたい。

その後、誠氏と安藤忠雄設計のTOTOのゲストハウス、洲本市の赤煉瓦倉庫を再生した建物、有生氏が上塗り中の茶室の現場、久住章氏が15年ほど前に手掛けた土蔵を見て回る。有生氏の聚楽土の上塗りは鏝跡の消しにくい、プロにとっても塗りにくい材料。この男、相当の腕利きである。当時久住章氏が凝っていたという漆喰のバロック彫刻の影響か、土蔵はとても色気のある、女性的なディテールであった。仕事も恐ろしく上手い。いつか土蔵の設計も手掛けてみたいと思う。

夜は再びゲストハウスにて昨夜のメンバーで焼肉と刺身、激談。さて、門真の左官工事の仕上げを詰め始めなくては。



 ■ 4月27日(日)

井上
井上大藏

今日、京都CDLの集会「まるしぼり」に参加してきた。
結局は昼からの、しかも一時間弱の参加だったが、行ってみて楽しさを感じる事ができたから、まずまずといったところか。『まちのいろ』については、小規模ながら数年前に“NPO法人アートプランまぜまぜ”の代表”さとう”女史とパブリック・アートの観点から「町を探索」した事がある。同時期に、立命館大の学生も「町歩き」をしていた。この2つの動きは、共通する内容として『五感で感じる』事を合言葉としていた。・・・その頃の事が妙に懐かしい!
“色”を知る事は、「町」を知る為の需要なキーポイントであ
る。

突然、話は変わるが5月4日・5日にかけて東京・横浜へ行く事にするとしよう。今決めた。うん。3日の深夜バスで行って6日朝に帰ってこよう。向こうでは、東京たてもの園と世田谷美術館向井潤吉アトリエ館、横浜三渓園を訪れる事にしようか。そうだな。(打ち合わせ等の)大事な用件が入らない限り、そうしよう。
ちなみに、向井潤吉は京都出身で戦後より民家を描き続けた人だ。



 ■ 4月23日(水)


森田一弥

 ここ数日、門真用の建具探しやその他の仕事で京都市内を走り回っていた。一階部分に使う建具が全て見つかったので、現場で大工さんに細かい建具の寸法を伝える。GWまでに土壁の下地となる部分を先行してもらい、大工さんが休みの間に竹の下地を編んでしまうつもり。休み明けには荒壁塗りができるかな。
 最近意識しているのは、古い技術と新しい技術の使い分け。特に改修の仕事では、その建物が建てられた頃の技術に忠実な部分と、現代の技術を使った部分をはっきり区別したい。そうすることで一つの空間にその建物が経てきた歴史を浮かび上がらせることができるだろう。古い時代と新しい時代が混沌としているのが京都の魅力だとすれば、一つの建物の中でもそれを表現できるはず。
 京都に限らず世界の歴史ある町では、角を曲がったとたん中世に紛れ込んでしまったかのような景色や時間の流れに遭遇することがある。世界には、これまで世界が経てきたすべての時間が共存していると感じる瞬間だ。



 ■ 4月17日(木)


森田一弥

 門真の現場の、土間コンクリート打ち。久住左官の久住君、発地君、新人の岡君と一緒に、土間にバラスを撒いて防湿用のシートを敷き、メッシュを敷いてコンクリを運ぶ。久しぶりの一輪車で、二回もコンクリをこぼしてしまった。発地君に笑われた。昼飯を食べてコンクリが締まってきたところで、カウンターや土台部分のブロックを積む。これまた久しぶりのブロック積みで、あたふたしているのを久住氏に笑われる。
 「銀閣寺の家」以来、現場に出ていないので体中の筋肉がなまってしまっていて、ここしばらくの体中の筋肉の痛みは心地よい。帰りの京阪電車中の一時間は読書時間になって、これまた大変よろしい。



 ■ 4月16日(水)


門藤芳樹

木構造のこれからについておもふ 2

ジレンマ。だが、途方に暮れていても仕方がない。そして、このまま実務をやっていくのはマズイと思ったので、今は研究室にも身を置いている。
幸い、古い木造の改修計画等であれば、あまり具体的な内容とは言えない法律にさらされることなく、研究成果を直接参照して、ケースバイケースでその木構造固有の問題(壁量の不足、接合部の傷み)に対処できる。法律を軽視するわけではないけれど、実際は必要なくても確認書類のためだけに金物や耐力壁が発生したりするようなナンセンスな事態を避けることができる。

少し話はそれるが、木造に限らず、理想的なエンジニアというのは、工学的な判断力(数値解析)と、経験的な判断力(カン)を兼ね備えていなければならない。文章にして読めば、「当たり前じゃない??」という内容だが、例えば数値解析が専門の設計者であれば、コンピュータに入力すれば、ビル1本くらい簡単に計算できてしまう。だが、5mのH-100*100*6*8(鉄骨)を目の前に置いて、「この重さは何キロでしょう?」と問えば、電卓を叩かないと見当もつかない、一桁数字を間違っていてもピンとこないという人間が実際に多い。これは、ディスプレイ上の数字と、目の前のリアルな物質が結びついてないためで、PCに入力しないと何も判断できないというのは構造設計者として不自由であるし、特に木のような自然素材を扱う場合においてカンが働かないというのは致命的な欠点となる。

一方、経験的な判断力というのは、具体的には自身の中で経験に基づいた統計的判断をしていることになる。これは、今までに経験したことがないような骨組形式、大地震、台風に対しては判断を誤る可能性があり、また、自分を過信してしまうと、正確な判断力を保てなくなる。やはり、ある一定の数字による定量的な判断も必要になってくる。

門真のような実務の機会がある度に、自身のトレーニングとして、実際に工学的な判断(数値解析)と経験的な判断(カン)の両方をまじめに検討することにしている。今回は手を加える部分の検討に限ったが、必要と思われる耐震補強は、経験的な判断の1.2倍程度であった。現地での判断がPCによる判断よりも20%足りなかったことを意味している。
理想的にはこれらがもっと小さな誤差でおさまって欲しいところだ。鉄骨ならもう少しいい線いくのだけれど、まだまだである(ちなみに、佐々木睦朗氏はせんだいメディアテークでも誤差5%以下だったと言っていた。本当なら驚異的!)。



 ■ 4月15日(火)


門藤芳樹

木構造のこれからについておもふ

傑出した匠によるものでなくても、日本の文化の中で培われた伝統軸組というやつは、本当に合理的で美しいと思う。が、阪神淡路での地震被災例が多いこともあり、古くさい木造は「弱い」という漠然としたイメージを、僕も実際に持っている。その反面、五重塔など、冷静に考えれば相当クレイジーなものだって、何百年も(ということは何度か台風、地震をくらっている)残っていたりする。本当に近年になって、その工学的裏付けがとれたようなきわめて精巧な技術も、棟梁のカンと経験で建てていたわけだ。つまり、技術が正確であれば、鉄、RC、木の隔てなく強いわけで、木に被災例が多いのは、鉄/RCに比べて木造の法制化がアマイことにも一因があるように思う。

今、木構造の研究が盛んに行われている。粘性ダンパー竹の集成材LVLなど新しい技術に関するものから、土壁や貫、ほぞ等を数字に置き換える地道な作業も膨大な件数が行われている。これらは鉄やRC並に法制化を進めて、木構造を工学的にきちんと評価したいという直接的な狙いがある。「弱い」というイメージのままでは、木構造が社会から消えていってしまうんじゃないか、と我々技術者は少なからず懸念を抱いているのだ。

研究者がはじき出した無味乾燥な数字の羅列を法制化なんかしたって、木構造が守られるとは考えにくいという意見がある一方、口頭/伝承によってのみでは、大工が代替わりした時、ほとんど災害のない時、被災直後等で、技術に非常にムラがあり、正確に伝わっていないという指摘もある。特に地震の場合、人間の生涯よりも周期が長いため、被災した建物を設計した大工は地震を未経験だったため対策が甘かった、という苦い経験を永遠に繰り返している嫌いがある。よって、木造に対してある程度定量的な評価を与えざるを得ないのだが、研究結果を法令化するとなると、法律は「だれもが読んで理解されなければならない」ために、ほとんど研究成果を無力化してしまうほどに単純化され、「0.6」等とどれほどの意味があるのかわからない数字に置き換えられてしまう。

これは、僕にとってたいへんなジレンマだ。
けっこうマズイんじゃないだろうか



 ■ 4月14日(月)

森田一弥

 着工以来、毎日門真の現場に通っている。11日に左官職人の久住誠が現場を訪問、早速改修案の構造的な問題点を指摘される。阪神淡路大震災を身をもって経験している彼の言葉には説得力がある。この建物のような入母屋造りの民家がどのようにつぶれるのか、解説付きだ。一左官職人に、設計者と大工が雁首揃えてダメ出しされているのだから情けない。ここ数日、構造家である門藤氏も加わってもらって対策を練っている。一方でこうした問題は、新しいアイデアを生む源でもある。上手く、合理的な解決方法を見つけたい。

 庭木の方は、着工前に樋貝さんに来てもらって、真夏になるであろう造園工事の移植に耐えられるように、「根切り」をしてもらってある。ここ数日でずいぶん芽吹いてきたが、良い庭になりそうである。
 周辺一帯が元はレンコン畑だったという建物の地盤は、相当軟弱であることが分かってきた。束を支える束石が、ひどいところでは3センチも沈下している。店舗部分の床全体に急遽砕石を敷いて、コンクリートを打設することにした。追加工事に次ぐ追加工事、己の見通しの甘さを恥じ入るばかりである。



 ■ 4月13日(日)

井上大藏

今、4月13日午前5時30分。5時前に帰宅して、一風呂浴びて落ち着いたところ。2時間30分後には、再び家を出る事になるだろう。寝る時間は、・・・当然無い。

昨日ほど神楽岡に長くいた日は過去無かった。9時前に入って我輩のノート型PCの修理。11時頃に親戚の家に行って、一寸した打ち合わせ。京大生協で本日初の食事をとる。午後から京町家再生研究会のNPO法人化記念講演会に出席。午後5時頃に神楽岡に戻って、再び作業開始。何時しか森田氏が来所され、久住さんの息子さん(多分)と打ち合わせが始まる。我輩は作業継続。これまた、何時しか森田氏一行が食事に出られたのを受けて、しばらく後、我輩も“ふらり”と外へ。用事を思い出し、工事中の友人のアトリエ兼住宅へ向かう。11時30分頃に分かれて、神楽岡へ戻る。森田氏・久住さんの息子さん(多分)・門藤氏が居られて打ち合わせ中。我輩は作業再開。何時しか、皆帰り我輩が残る。造形芸大の教科書を見つつ、PC作業を行う。風呂に入りたくなったので家に戻る。ついでに家の作業をする。

いったい、何時間ほど神楽岡にいたのか判らん!
誰か計算しておくれ・・・(笑)



 ■ 4月10日(木)

森田一弥

 本日門真着工。また体力勝負の日々が始まる。今日は京都工繊大の中川君が一緒に作業に参加。かかり初め(着工式)のあと、大工さん達と解体工事開始。解体を始めるといつものことながら、予期せぬ建物の問題が見つかり、仕事が増えていく。今日も屋根裏にひとつ問題が見つかり、大工さんの仕事が増えてしまった。



 ■ 4月7日(月)

森田一弥

 午前中は、京都大学建築学科の布野研究室に顔を出して、恩師である布野修司氏に相談事。今年の秋に、全国から左官の腕利き職人が集まって「大津磨き」の研究会が行われる予定なのだが、それを何とかメディアに載せて発信できないかと考えている。いろいろと助言を賜る。
 大工さんの世界では、かんなの削り屑を薄くすることを競う「削ろう会」が有名だが、これはそれと比肩する高度な技術を競う「磨こう会」ともいうべき会である。この会はどれだけ壁を磨いて光らせるかを競いつつも、特に審査基準を設けて順位を付けるわけではない。全国の左官職人が、それぞれの地域から持ち寄った土を使って、それを独自の調合、技術で一枚の壁として仕上げることに全勢力を注ぐ。むしろ壁を「磨く」という同じ目的の中にどれだけの多様性を展開することができるかを競っている。これが面白いところだ。
 土の性質に合わせて、新しい技術が開発されていくであろうその会は、地域性が失われつつある現代でも、差異の創出が可能だと教えてくれるはずだ。

 昼から建築写真家の杉野圭さんに依頼して、「」と「たかはし」の写真撮影。「住宅建築」の取材で「ラトナカフェ」を撮って頂いてからの縁だ。素人の自分がどれだけ頑張っても撮れない雰囲気を表現してもらえる。自分でもずいぶん写真を撮ったが、やはり「餅は餅屋」である。それぞれのカットで何を表現するべきか話し合いながら構図を決定していくのだが、写真家である杉野さんとのやりとりは自分の仕事を客観視する上でも刺激的である。予算の都合でお願いしたのは合計10カットだったが、「たかはし」の撮影が終わったのは、夜の九時を回っていた。



 ■ 4月5日(土)

柳沢究

芸工大の入学式。一学年の人数が300人くらいだから、大学としては小規模には違いないが、その分、距離が近いのが肌でわかる。学生相互も学生・教員間も。京大にいて全教員の顔が見えたことがついにあったろうか? それは当方の意識の低さもあったにせよ、様々な点においてこれまでいた大学とまったく異なる雰囲気に、日々刺激を受けている。 大学にいた間、主観的には交友範囲を狭めたつもりもないし、なるべく多方面にアンテナを伸ばしていたつもりであったが、いやいや、まだまだ、との実感。これまでやってきたことに、何ら引け目も負い目もないけれど、…大学…学研究科…専攻という世界の狭さは、良くも悪くも認識した次第。

晩にはほぼ全教職員が集まっての懇親会。いろいろな人と気さくに話をすることができた。かねてから日記を拝読していた花田佳明先生にもお会いし、いつもホームページ見てます、と言おうと思ったら、逆にジャーナル読んでますと聞かされ心底仰天。うーむ恐るべし。 二次会は長田の方へ繰り出し日本酒を。



 ■ 4月4日(金)

森田一弥

 コンペで滞っていた仕事にかかる日々。コンブ金物さんや家具の戸田さんという分離発注先を回って金額や設計の打ち合わせ、加えて古い建具を扱っている店を巡り歩いて、使えそうな建具の目星をつける。門真の民家改修は大体予算内に収まるように見積金額が調整できたので、昼からラトナカフェにて施主さんと打ち合わせ、工事契約のめどがついた。着工は4月10日の大安に決定。ちょっと遠いが、仕事はいっぱいあるので神楽岡のメンバーにもバンバン参加願いたい。左官工事の内容がまだ未定事項が多いので、久住誠が東京から帰ってきたら色々サンプルを造らなくてはいけないだろう。ようやく現場が始まる。

 夕方、「たかはし」の高橋さんから電話があり、新しくお店を出したい女性を紹介された。蕎麦を出す、カウンター席中心のお店にしたいとのこと。不動産屋さんに紹介されたという物件は、立地の面でも、家賃の面でもビジネスとして成り立たせるのが大変そうなので、じっくりと物件探しからスタートすることにした。

 個展「誇大妄想建築」でもお世話になったルームマーケットさんからは、管理する予定の賃貸物件(長屋)の改修の話があった。普通、工務店にテキトーに直させるのが不動産屋の常識だが、予算内であれば自由に改修できるという。これはまだ計画段階だが、実現すれば面白い事例になるはず。



柳沢究

晩に、井上氏およびその友人、寺尾くんと元町にて飲む。寺尾くんは古材バンクの会に何年も前から頻繁に参加しており、最近では兵庫県が取り組んでいる、全国的にも先駆的試みの「ヘリテージマネージャー制度」を積極的に担っている、なかなかにフットワークの軽い好青年だ。
神戸のいろいろな建築事情を肴にしながら、結構しこたま飲みました。いいね、これゼッタイいけるぜ、という出版企画のアイディアも生まれた。酒の席の話で終わらせてはもったいない。寺尾君と協力して神楽岡で具体化する方策を探りたい。



 ■ 4月1日(火)

柳沢究

31日に太陽光発電コンペを12時ぎりぎりに仕上げ、提出。飯食ってフラフラになり帰って寝る。樋貝さん、山本さん、別府くん、ほんとうにお疲れさまでした。

徹夜続きのため、あやうく寝過ごしかけたが、何とか7時に起きて大阪は河内小阪の大阪商業大学に行き「辞令」というものをもらった。これで、就職、というわけだ。

2時間ちかくかけて行った割に、辞令交付は15分ほどで終わる。大学に行く必要もなかったので、たまたま発見した司馬遼太郎記念館の看板に導かれるまま、入館。実は中高生の頃、熱烈な司馬読者だったのです。いやぁ、よかった。中身が、です。建築も悪くないけど、安藤建築はもう完成されすぎていて建築を楽しむ気分はでない。その意味では美術館やギャラリーには適しているかもしれない。

中身、といってもそれほど大仰なものでない。司馬氏の全作品と若干の手書きの原稿などが展示されている程度で、メインは4万冊以上という氏の蔵書の展示だ。一つの作品を書くためにその土地、時代、人物に関するあらゆる資料を読破するという氏の執筆スタイルはよく知られている(神田の古書店から消えた本のジャンルで次の作品テーマがわかったという)。蔵書をみていると地方史誌や辞典のたぐいの中に、伊東忠太の『東洋建築研究』や瓦図鑑、『職人ことば辞典』なんてのもある。
そこには歴史的な知識の集積を尊重し、その流れの中に、自らを自覚的に位置づける謙虚かつ果敢な姿勢がある。素直に感嘆すべきもの。
建築の世界をひるがえりてみれば、「建築史」というものと「建築」の断絶もさることながら、オリジナリティが生まれないから雑誌は読まない、とか、ろくな造詣もないまま歴史的建築(伝統的建築だけではなく)を軽視する態度の尊大さとは??


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