神楽岡工作公司
JOURNAL
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2005年12月〜



 ■ 12月29日(日)

森田一弥

 昼から「銀閣寺の家」の写真を撮影する。引っ越しが終わってしまったら、な かなか写真を撮る機会もないであろうから、気合いを入れて行ったが自分の愛機ニコマートちゃんはうまく撮ってくれたのかどうか。現像から上がってくるまで不安である。

 撮影終了後、神楽岡の掃除。荒れ放題になっていた庭を整理して、表の瓦を運び込んできれいに並べ直した。半端の木材を沢山庭で燃やしたが、空気が乾燥しているので火の勢いが強く、冷や冷や。年が明けたら、もう少し部屋の中も作業をしやすいように手を入れたい。「銀閣寺の家」で左官材料も沢山余っているので、時間を見て壁も塗り替えたいと思っている。

 夜は「しっくい浅原」の面々と忘年会。今年の年末は浅原の親方から「応援に来て欲しい」との電話をもらいながら、行けずじまい。相当忙しかったようだが、左官屋がバタバタつぶれていくこのご時世に有り難い話である。相変わらず愉快な面々で、顔の筋肉がおかしくなるくらい笑わせてもらった。

 ■ 12月28日(土)

森田一弥

 柳沢氏の「銀閣寺の家」のオープンハウス。直前になって案内を出したにもかかわらず予想以上の人が訪れてくれたようである。自分も今までオープンハウスなどということはやったことがなかったが、京都の建築界を活気づけるためにもどんどん積極的に企画していくべきだと改めて思った。自分の仕事を色んな人に見てもらって第三者の意見を聞けるということもあるが、それ以上にオープンハウスという場は一種の社交の場なのである。こうした機会に今まで縁がなかった人とのつながりが出来ることは普段の生活ではなかなか無いことであり、自分は左官工事だけの参加であったが良い経験だった。

 一乗寺プロジェクトは企画書の方は大体めどがついたが、来年改めて施主さんに説明に行くことになった。





柳沢究

「銀閣寺の家」オープンハウス開催である。初めての試みであるが、まず準備としては知り合いと大龍堂のメルマガに案内メールを流し、お世話になった業者にはFAXで、ご近所の方には施主さんを通じ案内を送った。

常識的に考えておかしいくらい直前の案内にもかかわらず、午前中はご近所さん、施主の友人等でにぎわい、午後からは神楽岡のメンツや大龍堂のメールを見て来た人でけっこうな盛況であった。特に大龍堂のメールで来たいただいた方は初対面の方が多く、僕と同年代で独立し設計事務所を開いてるような人も数人いた。狭い京都にかかわらず大学のつながりをのぞくとそういった人と知り合う機会は意外と少ない。貴重な出会いの機会となった。京都での建築関連情報の発信源として大龍堂の右にでるところはないが、そこでもこういったオープンハウスの情報というのは稀である。自分の付き合いに限らず、もっと一般にいろいろ流したら交流も広がるだろうに。元京大建築の教授三村浩史先生がいらしたのも驚いた(初対面)。ごく近所に住んでいるから見に来た、ということであったが、この時代の建て売り住宅は今どんどん取り壊されているがこういう再生は貴重、と励ましの言葉を頂く。最後の方は人も少なくなり、火鉢を囲んでサロンのような雰囲気であった。
実作を見て意見がもらえるのはありがたい経験であるが、こそばゆくもあり。

晩は病院の忘年会で西陣「鳥岩楼」へ。創業130年の数寄屋での水炊き。その後は同じく西陣の「酒蔵BAR」で焼酎を倒れるまで飲む。ここは焼酎のラインナップが尋常でない。カラオケの曲集のような分厚いメニューがある。

 ■ 12月27日(金)

柳沢究

病院の宿直あけに朝から神楽岡へ。森田氏とともに一乗寺の簡単な打ち合わせを行った後、スタディ模型製作にはいる。昼過ぎには一度神楽岡をぬけ、縫製を頼んでいたカーテンをとりに伏見稲荷まで走る。その後「銀閣寺」にてカーテンの取り付け。思いの外苦戦し、神楽岡帰還は夕方となった。これでとにかくも「パーフェクト銀閣寺」完成だ。少し模型製作をした後、作業を続ける森田氏、中川君には申し訳ないと思いつつ、布野研の忘年会に途中から顔を出す(百万遍しゃらく)。普段より人数も少なく、忘年会としては少々さみしい。

僕が修論でフィールドとしたインドの聖都、VARANASI (BANARASとも書く)の日本語表記について布野先生、応地先生、パントさん(ネパール人)と酒の肴に議論する。候補は「ヴァラナシ」「バナーラス」「ワーラーナスィー」などがあったが、結論として「ヴァーラーナシー」とすることに決定した。理由はVARANASIがサンスクリット文献で歴史的に使用されていることと、行政上の正式名称であること。BANARASは現在の最も日常的に使用される町の呼称。英語でいうBENARESベナレス(正確にはベナリーズ)はこの転訛である。応地先生にいわせれば、VARANASIもBANARASも音がちょっと変化しただけで大した差異はない、つまりは「おおさか」のことを「大阪」とするか「大坂」とするか程度の問題であるとのこと。日本語での表記については必要以上に煩雑な表記とせず、なるべく現地発音に近いかたちで決定した。今後、すくなくとも建築界においては、この表記がスタンダードとなるであろう。

カラオケなど歌わされつつも一次会をぬけて山田氏とともに三度神楽岡へ(11時くらい)。しかし深夜の神楽岡はあまりにあまりにも寒く寒く、作業まったくはかどらず。小学校の教室で使っていたようなだるまストーブか暖炉が欲しい。

 ■ 12月26日(木)

森田一弥

 一乗寺集合住宅プロジェクトについて、ルームマーケットの平野さんと打ち合わせ。結局、容積率いっぱいの計画ではなく、少し控えめの計画にし、住戸あたりの面積も少し大きめにとることにした。そういった建築家側の提案に対して、不動産業者、もしくは借り手側の見方で意見を聞ける相手が身近に居るのは本当に有り難いことである。施主さんの思惑というのも当然存在するわけだが、使う側の意見というのは一番説得力があるからである。

 自分が学生だったほんの数年前と比べても、人々の住む場所に対する考え方は相当多様化している。学生の住む場所にしても当時は貸間か木造アパートかワンルームマンションしかなかったのが、家族用のマンションや一軒家をシェアしたりするのが珍しいことではなくなっている。集合住宅も借り手が一体どんな人になるのか、どんな使われ方をするようになるのか、数十年後には想像もつかないことになっているかも知れぬ。今はまだ、そんな漠然とした予想しかできないが色んな分野の人と交流する中で何か手がかりをつかみたいと思う。

 夕方は友人で同年の左官職人、土橋充佳氏に来てもらって丹羽哲矢氏の町家改修現場の左官工事を請け負ってもらえないか相談する。彼もとても熱心な左官職人で、今は東京の勝又左官にいる坂井直幹氏達と時間を作っては日本国内のみならずヨーロッパまでも建築を見て回っている。今は京都という土地柄、文化財の現場など昔ながらのやり方を踏襲する中でしかその熱意を発揮できていないが、若い建築家と仕事をする中で伝統にとらわれない左官の表現を見つけだしていって欲しいのである。相変わらず予算は厳しいが二つ返事で引き受けてもらえそうで、良かった。

 ■ 12月25日(水)

柳沢究

「銀閣寺」であと少しのこっていたジオングの足を完成させるため、ノムラテーラー、縫製屋さん(蛸薬師の)、ホームセンターをめぐる。なんのことはない、ちょっと特殊な形のカーテンをつくりたかったのだが、縫製料金が予想以上に高くて驚いた。縫い目1mあたり1000円だ。ちょっとしたサイズのカーテンならあっというまに一万円をこしてしまう。店のおっちゃん曰くカーテン屋の3分の1だそうなんだが。なんせ時間がないのであまり値切れず、それでお願い。

 最後にホームセンターであるが、これはこの2ヶ月間ほんとうにお世話になった。コーナン(宝ヶ池店)とニック(川端店)なくしては、「銀閣寺」は完成しえなかったのであろう。実際のところあまり凝ったことをやらなければホームセンターだけで家は建つし、日曜大工並の腕とちょっとの道具さえあればだれでも家など作れる、という事実の認識はよかれあしかれ今回の収穫の一つである。ちなみにコーナンの方が品揃え多く(DIY関連商品については)安価であるが、ニックは現場に近かったので、両者同じくらい通った。これでホームセンター詣でも最後かと思うと目頭が熱く…。

晩は大急ぎで28日のオープンハウス用の案内をつくる(遅ぇ)。ようやく完成させて案内を流したのは26日の午前だ(まるで遅ぇ)。

 ■ 12月24日(火)

柳沢究

24日はさすがに昼まで寝ていた。クリースマスてなことでどこかに食事に行ったのは覚えているが…

そういえばこの1週間くらい前に、6年間のばし続けた頭髪(腰くらいまでの長さ)を切った。長髪にもいいかげん飽き、日常の面倒くささにうんざりしていたのだが、さすがにここまで伸ばすと容易に斬るわけにいかなくなっていたところ、「銀閣寺」の現場での作業中、電動丸ノコのモーターに髪の毛を巻き込まれ危うく…という事件があったため、これをきっかけに切ることにしたのである。
切ったら首の軽いこと軽いこと。風呂の時間は約3分の1に短縮され、銭湯にはいるたび(我が家に風呂はない)なんだあいつきもっ、という目を向けられることもなく、毛玉の悩みからも解放され、といいことが多いのだが問題はあった。
人から認識されなくなったのだ。ほぼ毎日あっているような連中でも黙っていれば10分くらいは気づかない。1ヶ月や2か月ぶりに会う人は、もうこれっぽっちも気づいてくれないのだ。隣に座って話していても「誰やこいつ、初対面なのに馴れ馴れしいな」などと思われていたり。みんな髪の毛しかみてなかったんやなぁ、と悲しみつつもトレードマークの威力を逆説的に体感。いままではこっちが覚えてなくても相手が覚えてくれてたしなぁ。

あと髪を切ったことに対する反応について。同様のシチュエーションは女性の場合よくありうるが、今後の参考にすこしまとめたい。
まず一番多い反応で、もういい加減にして、と思うのは、「何で切ったの?」というやつ。これが有効なのはせいぜい切ってから3日くらい。後はうぜぇ。「彼女とわかれた?」なんてつくと最悪だ。あまり聞かれるのでなんと答えれば満足してもらえるやら考える。「シラミが大発生したので」とか「修行のかいあってヴァーナ・プラストゥ・アシュラム(林住期)の段階に達したから」とかいえば納得してもらえるだろうか。
前の方がよかったね〜、なんてのも避けたい。本人は大した理由なんてないさと思っていても、やはり一大決心はあったのである。実際よかったのか、どうでもよかったのかわからないが、気分の問題としてこういわれるとさみしい。
無反応はそんなに悪くないんだけど、やっぱさみしいし、別人と思われていないかという疑問が生じる。
で結論として、このようなシチュエーションのときどう反応するのがよいのか、というと、上記以外であれば、なんでもいいんじゃないでしょうか。要は話の種にすぎない。所詮髪は髪。長かろうが赤かろうが本人が好きで、周りにどう解釈されるかを自覚してやってれば、何の問題もありはしない。

 ■ 12月23日(月)

森田一弥

 夕方六時からラトナカフェにて、神楽岡の忘年会。久しぶりの面々も集まり、楽しい会であった。いつもはインド料理の店であるラトナカフェだが、今日は特別メニューのトルコ料理を頂く。川本夫妻は二年半の長旅のうち半年以上をインドで費やしているが、実はトルコでも半年以上滞在されていて、トルコ料理にも詳しいのである。

 今年一年を総括してみると、正月早々の「富弘美術館コンペ」に始まり、「仮の恒久住宅」コンペでの二位入賞、「ラトナカフェ」完成、「遅日草舎」完成、「OKM邸完成」、「神楽岡HP」始動、「アテネコンペ」、「銀閣寺民家改修」と盛りだくさんの成果が上がっている。神楽岡発足のきっかけになった「」も、日本建築士会連合会賞の奨励賞という形で評価された。個人的にもここ数年の宿題であった個展「誇大妄想建築」を京都と東京で開くことが出来た。

 忘年会の顔ぶれの多彩さを見ていると、何かを造り上げるという目的のために少しづつ人の輪が広がってきているのが実感できる。遅々として進まない日々の作業にもそれなりの意味はあったのだと元気にさせられた夜であった。





柳沢究

22日から宇都宮と徹夜で「銀閣寺」の細かい仕上げ作業と掃除を行う。23日朝、最後の畳がはいるころにようやく作業完了。「銀閣寺の家」が一応完成する(ジオング程度)。その後、気づいたら2階の畳の上で意識を失う。かなり寒い日であったが、晴れの日はまぶしいほどに日光がそそぐので、2階はぽかぽかのよい気分であった。三畳間をぶちぬいて吹き抜けをつくったのは大正解だったといえよう。

晩には神楽岡の忘年会に繰り出し、まさに2ヶ月ぶりに酒をしこたま飲む。料理の詳細はもはや記憶にあまりないが、うまかったことだけは鮮明に記憶。特に最初にでてきたバケットにオリーブオイルとヨーグルトをつけて食べるやつ、シンプルなくせに異様に旨かった。どうもヨーグルトやオイルがただ者ではなさそうだったので、後日店主の河本さんに作り方を聞いたが、意外や簡単(そう)なもの。今度やってみよう。知りたい人は直接ラトナカフェへどうぞ。2件目は和知へ行ったが記憶はおぼろげ。

 ■ 12月21日(土)

森田一弥

 昼から神楽岡で門真プロジェクトの施主Aさんと打ち合わせ。急ごしらえの模型を造っておいたおかげで、準備不足だったが何とか一通りの打ち合わせが出来た。やれやれである。来年一月中に設計をして、三月には解体工事をはじめられれば・・というスケジュールを組んだ。

 一乗寺プロジェクトの方もようやく基本設計の作業をはじめる。神楽岡内で打ち合わせは何回もやってきているのだが、結局作業に時間を割けるのが自分だけなのでなかなか進まない。自分の仕事だから独りでやるのも仕方がないが、いまいちスピード感に欠けるのである。というか、独りだけで考えるなら一晩でまとめるのも可能だが、変に何度も打ち合わせをして色んな意見・アイデアを聞いたあとで独りでまとめようとするとなかなか進まないものなのである。案のレベルが上がってきているのは確実なのだが。ヤバイヤバイと言いながら、もう一ヶ月以上も施主さんを待たせてしまっているので来週中には本当にまとめなくては。

 NHK人間講座「宇宙からみる生命と文明」のテキストを一通り読んでしまった。面白い。しばらくネパールにでも飛んで、ヒマラヤを見ながらゆっくり考えをめぐらせたい気分である。

 ■ 12月18日(水)

森田一弥

 神楽岡で門真の模型造りをするが寒い。灯油のストーブも効かない。門真の住宅は戦後築の入母屋造りで、今まで模型を造ってきた町家とは構造が違うので、模型造りは現地で実測した野帳を見ながらの試行錯誤しながらである。床を抜いて吹き抜けを造ると小屋組はどのように見えるのか、今まで雑誌などでも見たことがないので、ほんとに模型がないとよく分からないのだ。

 久しぶりにラトナカフェに行く。新しいストーブが入っていたが、寒い。ホワイトオークの机と椅子も、冷たさがしんしんと伝わってくる。膝にかける毛布が置いてあった。よその店ではよっぽど暖房を効かせているのだろう。お客さん、逃げていかないか心配である。ただ、先日掲載された「別冊太陽」を見たというお客さんがもうずいぶん来ているようである。辛い「フィッシュカレー」で、体を温める。

 夜は「一乗寺プロジェクト」打ち合わせ。階段、廊下の付け方と、メゾネットのユニットの間取りを考える。大体これで行こうという案は出来たが、これが果たして一般人である施主さんに受け入れられるのか、あまり自信はない。出来たら面白いモノになるのは間違いないのだが。

 ■ 12月16日(月)

森田一弥

 銀閣寺の現場の左官工事にかかりきりで、仕事がいっぱいたまっていたので、とにかく走り回る一日。子供の出産届もノビノビになっていたので、ようやく出せて、一安心。名前は長男の「太郎」に次いでということで、「次郎」。区役所の担当のおじさんは「いい名前だ」と、妙に喜んでくれていた。
 
 昼過ぎに友人の丹羽哲矢氏が改修する予定の町家を見に行く。大正末期の築で、通り庭の吹き抜けには天窓があっていい感じだが、壁はかなり傷んでいた。総塗り替え、中塗り仕舞いで60〜80万円てところだろう。ここでも鏝を握ってしまうと、肝心の事務所が開店休業状態になってしまうので誰かいい左官屋さんを紹介することにする。この現場も、予算は200万円とのこと。かなり、というか、めちゃめちゃ厳しい話だ(風呂もつけなきゃいけない)。この家は借家で、いままで家主が家の管理を怠って悪いところにフタをしてきた結果、ずいぶん建物が傷んでしまった。今回は借り主が自分のお金で直すわけだが自分の持ち物でないモノにそれほどの投資が出来るはずもない。今は借り手の意識改革が先行している状態だがこれからは家主がもっと自分の持ち家の価値に気づいて、自らのお金をかけて修繕するようになってくれることが望ましいと思う。店舗にする(当初から内装用の予算がある)のが主流の現状も、もっと広がりを見せるはずだ。

 ■ 12月15日(日)

森田一弥

本日で左官工事は終了。最近忙しいからか誰もジャーナルを更新しないので自分が書いてしまうが、他の工事は玄関の増築部分が大詰めにかかり、今日は床のコルクシート張りも始まった。自分の責任は果たしたので、しばらく自分の仕事にかかりたいが、引き渡しの前日あたりには手伝いに行かないと間に合わないだろうな。

 昼過ぎに漆職人の東端唯氏と大工の長矢剛氏が現場を覗きに来訪。どちらも二十代後半、技術もあってやる気も十分の即戦力なので、近いうちに一緒に仕事がしてみたい人達である。この現場の印象がどうだったのかは分からないが、興味を持ってくれればうれしい。

 最近、偶然つけていたテレビの番組でNHK人間講座「宇宙からみる生命と文明」が面白かった。初回をみて、興味を持ったのでテキストを書店で買って夜寝る前に読んでいる。アストロバイオロジーといって、人間が宇宙に出たことによって得られた地球への客観的な視点から、文明のあり方を考えようという内容である。 

 ■ 12月11日(水)

森田一弥

銀閣寺改修現場の左官工事の上塗り開始。まず、吹き抜け上部から仕上げはじめる。砂漆喰で下塗りしてから上塗りを二回塗りして仕上げる。砂漆喰の保水力が強すぎるのか、材料の水分が引く前に表面が乾燥してしまい、うまく仕上がらない。夕方から塗りつけた壁は下地に刷毛で水をやってから上塗りだけを塗るようにしたら、きれいに仕上がった。明日からはこの方法で仕上げることにする。今日の朝に塗りつけた壁は一部塗り替えだ。赤、来、白の壁のコントラストはなかなか美しく、デスティルによる平面構成のように見えなくもない。

 ■ 12月9日(月)

森田一弥

 銀閣寺の中塗り作業が終わり、二階の和室の中塗り仕舞いの仕上げ作業にはいる。明日は発地君に大津仕上げの材料の調合をしてもらって、あさってから他の部屋の上塗り作業にはいる。柳沢氏と発地君とで壁の塗り分けを決め、色の平米数ごとに必要な材料の量を計算した。急に冷え込んできたので中塗りした壁の乾きが遅い。乾燥を早めるために扇風機をめいっぱい回しているので部屋の中は寒風吹きすさんでいる。

 ■ 12月8日(日)

森田一弥

 「しっくい浅原」の倉庫で私の兄弟子、矢野孝太郎氏が黒漆喰の磨き作業をやっていると聞いたので、覗きに行く。彼は京都の美大を卒業後、浅原氏の元に弟子入りした一番弟子で、その几帳面で真面目な性格から今は難しい仕事を一手に引き受けている。ほんとに仕事が好きな男で、毎月第一日曜日に京都の東寺で開かれる「がらくた市」にここ一年通い続けている。先月その地道な努力が実り、今は造ることの出来る鍛冶屋も少ない「磨き」用の鏝が、無造作に箱に突っ込まれているのを発見したそうだ。壁はほぼ鏡のように人が映るほど磨き上げられていたが、部分的に残る「曇り」をとるのに苦労していた。明日から舞鶴市にある文化財の民家の玄関を仕上げるそうだ。

 夜は神楽岡会。参加者は森田、山田、柳沢、門藤、中川、井上、津田、内藤、山上の九名。門真、一乗寺、泉佐野プロジェクトの打ち合わせ。 

 ■ 12月5日(木)

森田一弥

 昨日、家内が男の子を出産。彼女は来週まで病院にいるので家に早めに帰って子供を世話してやらねばならないのだが、今夜は大原の久住氏の倉庫で銀閣寺の仕上げの最終色あわせ。助っ人に来てくれている、ばあちゃんに任せる。

 昼間は相変わらず銀閣寺の現場で中塗り&土間のコンクリ仕上げ。昨日は柳沢氏と打ち合わせ不足で勝手にコンクリートの配合を決めてしまったが、今日は問題なく仕上げる。山上、門藤コンビはダイニング部分の棚を造っていて、プロの大工さんの1/4ぐらいのスピードだが少しずつ形になりつつある。

 当初、壁は土の色だけで構成したいと思っていたが、もともと手元にある土の種類が限られていることもあり、どうも気に入らない。柳沢氏は他の材料の搬入で来られなかったので、自分と久住氏と発地君で、顔料を加えながら色を調整した。蛍光灯の光では微妙な色の具合が分からないので、昼間に太陽光の下で柳沢氏に最終確認しようと思う。





柳沢究

鷹峯プロジェクトの方もほったらかしになっててまずいので、市役所の開発指導課に行きいろいろ話を聞く。敷地が市街化調整区域(リンクを探してたらこんなのがあった。結構切実な問題である。)ため、新築にせよ改築にせよ話が非常にややこしくなりそうなのだ。開発指導課では以前神楽岡に何度か来てくれた某氏とたまたま出会う。その敷地は厳しいですよ、最近は許可もほとんど下りないし、たぶん無理じゃないかな…と言われてかなりへこむ。まあ、でもやり方はきっとあるはずである。しかし時間がかかりそうだ。

その後北区保健所に行き、飲食店を営業するための基準と湧き水を営業に利用できるかどうか、ということを聞きに行く。これも鷹峯関係。「営業施設基準」の方はまあどうということはない。湧き水を営業(すなわち不特定多数・営利目的)に使用するためには、細菌や有機物、各種物質等、26種類にわたるチェック項目(リンクは広島のもの。京都も大体同じ)をクリアせんといけない。しかもそれを毎年やる。大体は一般細菌とか大腸菌でひっかかるので塩素滅菌装置が不可欠らしい。でもそれじゃ水道水だよな。検査業者として「微生物研究所」というところを紹介された。料金一回三万円だ。予測される作業量にくらくらしたが、水質監理はある意味当然。しかしこれらの内容は「営業」でなければかかわりがない。つまり金をとらなければよい。これはおいしい湧き水ですよ、御自由に飲んでください、でもあとで食中毒とかなっても、それはあなたの責任ですよ、というスタイル(梨木神社の染井の井戸と同じスタイルだな)でいけばよい。後はモラルの問題。しかしこれはだいぶん先の話だ。まずは改築そのものができるかどうかが問題である。

 ■ 12月4日(水)

柳沢究

ごっつい久々の書き込みである。いかんね。こういうのは少しずつでも続けないと。ちょっと日があくと、その分を埋めなきゃというプレッシャーがかかり、さらに書けなくなる。そんな悪循環を繰り返しつつ、いままでなんど日記というものを挫折したことでしょう。そうならないよう、これまでの空白のことはとりあえずおいといて、昨日今日のことからはじめましょう。

銀閣寺の現場は山上君や門藤氏、山田氏らが頻繁に来てくれるおかげで、最近は僕自身が少し息をつくことができるようになった。昼の間現場を少し抜け、所用をこなすためバイクでかけずり回る。主には銀閣寺の材料を仕入れるお店めぐりだ。

まずこんぶ金物へ行き、銀閣寺で使用した亜鉛引き鉄板、完成した看板の支払いを済ませる。看板、なかなかの出来である。詳しい解説は後日ページを改めて行いたいが、概要は、異形鉄筋D-13で「?」マークのような形の足を2本つくり、その上部に厚み3mm程度の鉄板を巻き(溶接)、文字をレーザーで切り抜き加工した物だ。
仕上げは「磨き」。しかも屋外に設置するから当然錆びる、それが最終仕上げである。最初は薬品処理ではなから錆び仕上げにするつもりだったが、昆布さんによれば薬品で作った錆は弱いんだそうだ。表面が錆びても中まで食い込んでないから、こすったらすぐおちてしまう。やっぱ錆びも天然ものが一番なのだ。雨風にさらされながら錆が出来上がっていく過程が楽しみである。一年もすれば均一に綺麗に錆びてくれるだろう。鉄筋も錆びるから構造的にまずいんじゃない?というむきもあるが、鉄筋は直径13mmでかつ鉄板も3mmあるから、崩れ落ちるくらい錆びるのはおそらく2〜30年かかるはずだ。ぜひそれまで末永く設置してもらいたいものだ。

その後、塗料屋やガラス屋(奥村ガラス店)、金物屋、製材所等に行く。情報はインターネットで結構あつめられるが、やはり物をみてかつお金の話になると、直接顔をあわせていろいろ聞くのがてっとりばやいし、副産物がある。こんなものもある、あんなものもある、と教えてくれるからだ。これはこれで結構楽しい。

 ■ 12月2日(月)

森田一弥

 昼間は銀閣寺の現場の中塗り作業。発地君が今週は金閣寺の茶室に手を取られて来られないので、自分が残った一階部分の中塗りに回らなくてはならない。来週から上塗りで、木工事の残っている吹き抜けの面から仕上げていく予定である。他の仕事をしなくてはという焦りもあって柳沢氏にはついつい口調が荒くなってしまい、申し訳ない。ただの八つ当たりは許されることではないが、互いの気持ちのぶつかり合う、緊張感のある現場は好きだ。たとえ喧嘩してでもモノが建ち上がってしまえば、全ては喜びに変わるのだから。

 夜は門藤、柳沢、山田氏に参加してもらって、一乗寺プロジェクトの打ち合わせ。最近皆忙しいが、自分で考えていても今回はどうしても煮詰まってしまうので、前日までに住戸ユニットのブロック模型を段取りしておいてそれを組み合わせながら考える。柳沢氏から「斜め配置案」が提案され、その配置でかつメゾネット型の住戸で構成し直すと、周囲の空地の利用、採光などの面で従来案に比べてかなりの改善がなされることが判明。とりあえずその案でスタディを進めてみようと思う。

 ■ 12月1日(日)

山田協太

一昨日アジア都市建築研究会で研究発表。面白い点はたくさんあるのだが、論理立てて話を展開しようとするとうまいことまとまらない。今後におおいに課題を残す内容だった。
本日は井上氏、池田氏と紀伊、根来寺にある一乗閣を見に行った。明治時代に建てられた和歌山県議会を移築したもので、現在池田氏が中心となって文化財として活用しようとする運動をしている。洋小屋組(キングポストトラス)を用いることで、木造であるにもかかわらず20m×25mほどの柱のない大空間空間を持つすごい建物だった。帰りに見た日本最古の洋式燈台(在堺市)も逸品だった。


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