神楽岡工作公司
大ちゃん紀行「函館・札幌編」
1.  概要でおます! 4.  北大構内にて
2.  函館〜はこだて〜! 5.  終わりかい!
3.  札幌じゃん!! 6.
函館〜はこだて〜!(車掌風)
 12時過ぎに、函館に降り立った。小樽と共に和製洋風建築の多い町である。札幌行きの特急列車が出る15時過ぎ迄の3時間程度であるが、函館に滞在できる!子供の頃より憧れていた、五稜郭に即座に向かう。あの綺麗な「星型」・あの尖がった「先っぽ」ところに行けると思ったら、足取りが早くなった。バスに乗って、いざ五稜郭へ。


 郭の脇には『五稜郭タワー』が建っており、タワー展望室より五稜郭が見下ろせる。五稜郭の全体像・構造はこちらを見てほしい。なぜなら全景が撮れないから。ここでしっかりと形状を記憶して現地に向かう。

 ここで少し五稜郭の歴史と形状について記してみよう。幕末の1864年に完成した五稜郭は、同じく幕末の日米和親条約の締結による函館開港に由来する。要は、プチャーチン(ロシア人)等の開港要求に対して、北辺防備がその目的であった。建造物としての城郭は、函館奉行所の建物がこれにあたる。この建物は、五稜郭に元々あった物ではなく、函館港の近くにあった。これが、時代情勢からの艦砲射撃を避ける為、五稜郭内の中央部に移ったものである。この木造の奉行所はその後、明治新政府に移管されるが旧幕府軍に占拠される。そして、戊辰戦争の最後の舞台なって再び新政府の所管となる。北海道開拓使が置かれたが、開拓使の札幌移転により解体された。よって現在は、造物としての城郭よりも史跡としての趣が濃い。今では、奉行所玄関部の唐破風のみが、五稜郭内にある市立函館博物館五稜郭分館の前に、行き場所無く置かれている。

 我輩達が「星型」を描く時、☆と書くが五稜郭の「星型」とは少しイメージを異にする。五稜郭の星型は“くびれ”部分が“きつくない”のである。よって、ツンツンとしたシャープな「星型」ではなく、亀が手足を伸ばしたような柔らかいイメージを構成している。当然、作った当初はそのような事を考慮した訳は無いと思うが、我輩の目から見てシャープさは無い代わりに、ドッシリさは存在している。そう言えば今思い出した事であるが、アメリカの国防総省(ペンタゴン)は五角形である。「星型」の“くびれ”を取ると五角形になる。西洋の城跡を見ると、町全体を城壁で囲んで外敵から町を守るそうだ。と言う事は、城壁や建物は外に向かって主張(建造)する。その為、中央部が空白になる訳で・・・と、考えていくと、ペンタゴンはその存在とは別の意味で、建造物としても“城郭”と言う事になった。なる程!

 現在の五稜郭は、市民の憩いの場所になっている。遊具があって、子供が普通に遊んでいる。「五稜郭だ」と言ってもらっても、それだけ見れば信じがたい。構造的には、石垣は大して高くない。どうやら石垣の上に、土を盛り上げて塁を築くようだ。
 ここで、四稜郭の存在を知った。この他にも、稜堡式の要塞(跡)は、国内に存在するようだ。少し意外であった。四稜郭に行ってみたいが時間がない。

現在の五稜郭 函館市街地図


 時間が無かったので市電で“大町”と言う停留所まで行き、そこから函館駅まで歩く事にする。これまた、時間が無いので資料館等には立ち寄らず、ホントに町並みを楽しむ事に徹した。下車地を“大町”にしたのは、理由がある。観光地図に「太刀川家住宅・店舗」とあったのである。これは、『北海道の住宅って・・・洋館ばっかりなんだろ!?っていう“確認”する感じ』のイメージが出来上がっていた事にある。実は、この『“確認”する感じ』が札幌で後程、崩壊する!「太刀川家住宅・店舗」は、その微動であった。


太刀川家住宅・店舗


 その後、「中華会館」や「函館市文学館」、「赤レンガ倉庫群」を経て函館駅に着いた。共に概観を見る程度である。着いて時刻を見ると、何と特急列車の発車の15分前であった!やばかった!これを逃すと、18時30分頃に札幌駅に着けない。という事は、時間的に制限のある初対面の彼女と、会えなくなるのだ。だから、ホントにやばかった。

と、同時に今日は、日が昇ってからご飯を食べていない。函館駅で「いかめし」を買って、車中の人となった。いざ札幌へGO!



その3
What's NEW/JOURNAL/WORKs/PROJECTs/REPORTs/FELLOWs/LINK/BBS/SITE MAP
■