神楽岡工作公司
大ちゃん紀行「函館・札幌編」
1.  概要でおます! 4.  北大構内にて
2.  函館〜はこだて〜! 5.  終わりかい!
3.  札幌じゃん!! 6.
終わりかい!(大阪人風)
 最終日の事を記そう。

 北大構内の事については、前回記した。だからその他の建造物について書く事にする。午後2時頃の札幌駅の「トワイライト・エクスプレス」の出発までまだ時間がある。北大を離れた我輩は、まず北海道立文書館に向かった。


 これが札幌赤レンガの代表格:重要文化財北海道庁旧本庁舎である。



北海道庁旧本庁舎:正面

北海道庁旧本庁舎:屋根と換気塔


 書籍で見るより大変巣晴らしい。気品のある建物だ。我輩も幾つか赤レンガの建造物を見てきたが、中々これほど品格が感じられる物とは出会った事がない。概要を記すと、明治21年(1888年)に竣工している。設計は、平井晴二郎(道庁技師)。間口61m、奥行き33m、そして頭頂部までは高さ33mとあるから高さのみで考えると10階建てのビルに値する。『当時の国内有数の大建築物』と表するのも無理なからぬところであろう。『道』のシンボルと言うよりは、『開拓への意気込み(攻め)』のシンボルと言えようか。

 内部火災等を起こしたこともあるようだ。永久保存への決意もこの種の建物では、昭和43年(1968年)と比較的早い段階で決めている。北海道百年を記念して決めたらしい。この頃から『北海道百年の歴史』のシンボルとしての存在が再認識されたのだろう。天然スレートの屋根、フランス積された意匠、250万個の国産レンガ(札幌市内の製造)はそれだけでも、じっくり楽しめる見ごたえを持っている。内部は、文書館機能や展示室・研修室機能を持ちあわせており、北海道の歴史を学ぶ事ができるようになっており、旧道庁の棟札やアイヌの復元住居も展示されていた。



アイヌの復元住居

 旧道庁を後にして、「後の時間をどうしようか・・・」と地図を見ていたら『日本庭園』との文字が目に飛び込んできた。日本庭園?何だそれは・・・。と思ったので行ってみる事にした。行ってみて理解できた。中島公園という大きな公園の中に日本庭園として整備された一角があった。

 中島公園は、池などや公会堂等の公的な施設もある総合公園である。そこでまた重要文化財建造物を2棟も見つけてしまった。ひとつは茶室:八窓庵(旧舎那院忘筌:ぼうせん)、もうひとつは豊平館(ほうへいかん:木造洋館)である。

 ここは本州ではない。だから日本文一角をなす茶室の存在が、日本庭園としての整備をなす切欠になったようだ。確かに露地(茶庭)部分は、遠州流宗家による庭園整備がなされているようだ。しかしながらこれとは切り離された形で、『日本庭園』として別に存在していた。池もあり大変立派な庭園である。何我輩個人としては、ちょっと複雑な気持ちがする。日本人であると思う我輩は、何人であろうか?簡単に考えても変である。日本国内に『日本庭園あり』の記載がある。北海道だからであろうか?とすれば、此処にある日本庭園は逆輸入されたような感が残る。“北海道と言う土地”を、「アイヌ」や「洋風木造建築」以外で改めて認識させられた瞬間であった。文化とはいったい何か?日本文化という言葉の実態は、如何なるものだろうか?日本らしさ・・・とは?変な話だが、入植は必ずしも文化を正しく伝達する手段とはならない事を理解したし、一つの文化を広範囲で共有し維持する難しさも改めて気がついた。話を戻そう。



八窓庵

八窓庵の軒裏


 八窓庵(旧舎那院忘筌)。そう、『忘筌』からも想像できよう。小堀遠州の茶室である。大徳寺密庵のそれとは別の『忘筌』である。なぜ此処にあるのか?単純な疑問である。移築である事は、言わずと知れた事であるが、誰が何時どのような方法で何故運んできたのか?また、保存方法は?建築を専攻していなくても知りたい限りだ。説明書きに全てが記されている。江戸期の人であった遠州は、所領の小室(現:滋賀県浅井町)の菩提寺:弧蓬庵に茶室を作った。これが現存の八窓庵であるとの事。その後、小堀氏の転封により所有が変わり、3度移築され4度目の移築で札幌に来る。4度目の移築年が大正8年(1959年)で、札幌の実業家持田謹也(当時の地元新聞社編集長、後日取締役就任)の自宅敷地が移築先でした。その時に建て増しが行われ、現在の姿となる。その後、所有者が長沢氏に変わり、昭和46年(1971年)に長沢氏から札幌市へ寄贈されて、現在の中島公園に移築して現在にいたったとの事。よって5度の移築がなされた事になる。当時の実業家が、本州:滋賀県から茶室を移築した。この事実をどう受け止めるかで、色々なモノが見えてくるでしょう。感嘆すると共に脅威を我輩は感じました。

 維持について、特筆しておこう。茶室です。壁は土壁。屋根は柿葺きです。北海道ですから当然雪が多い。滋賀で降るとしてもその比でない事は、予想できるでしょう。だから移築を思い立ち実行する脅威“も”感じるのですが・・・。現在は柿の上に銅版が葺かれています。古来は茅であったとの事。平成12年からは、冬季に限って毎年プレハブを建て日本庭園が公開される時期に茶室の公開を重ねてプレハブを解体しているようです。毎年これが繰り返されている・・・。以前はと言うと、毎年雪がくる前に建物の周囲(かなり離して)に鉄柱を立て、全体を囲ってきたと言うのですから途方もない事だ。我輩は、単なる維持だけで、途方もなく予算を消費していると思えてなりません。当然の事として、窓も障子のみでは寒い為、ガラス建具が入っている。多分、札幌移築後の持田氏時代の名残ではなかろうか。



豊平館:正面

豊平館:内部


 豊平館の第一印象は、清涼感を与えるブルーが見事だった!館の外壁を縁取るこの青さはウルトラ・マリンブルーで、昔は宝石として尊ばれたラピスラズリ(瑠璃)から造られた高貴な色との事。その高貴な色が使われたのには理由がある。当時、札幌では東京などからの来賓を泊める旅館がまだなかった為、明治11年、現在の市民会館の場所にモダンで豪華な洋式ホテルを建設することが決められる。その為、官主導のもと明治13年(1880年)に開拓使直属の洋風ホテルとして開拓使工業局営繕課の直営工事で竣工している。設計は、開拓使の建築技術者安達喜幸。職人等は東京から呼び集められたそうだ。

 そしてこの建物は、明治14年(1881年)8月30日から4日間明治天皇の北海道行幸の行在所にあてられており、この日をもって開館日としている。つまりは、北海道行幸が行為として既に決まっており、その受け入れ施設として当初より計画されていたであろう事は、想像するに無理なからぬ事ではないか。事実、3ヵ月後の11月には民間人に貸し付けられ「ホテルと西洋料理店」として営まれている。その後歴代の天皇が宿泊施設として利用し、昭和33年(1958年)の現在地への移築を経て札幌市の所有となり昭和57年(1982年)から5年間の修復事業の後、市営総合結婚式場として利用されている。天皇の御座所となった2階の部屋は、木部を春慶塗で復元されていた。広間のじゅうたんとカーテンは、西洋の技術を習得した西陣織の職工の手によるものと思われたため西陣で復元したとの事。何ともいえない足心地だった。



豊平館:妻面見上げ

 そんなこんな・・・をしていたら、あっという間に時間がたってしまった。札幌駅に戻らねば・・・。昨日、駅前のビル街の自販機で『Dr.ペッパー』を見つけた。周辺部の自販機を確認したが、売っていたのはその一台のみである。これを購入して「トワイライト・エクスプレス」に乗車した。自分の指定寝台に着くと、お向かいさんが既に来られていたのだが、これが何と女子高校生だ。しかも一人旅。しかもしかもセーラー服。気にしちゃいけないと思いながらも、それとなく気になるのが(寝台)電車のなすところ。時折、もれ聞こえる彼女の声が初々しい。旅慣れしていない証拠。声が耳に残って仕様がない。電車は京都・大阪へ向けて出発するし、心はハラハラ、期待にドキドキ・・・どうしよう?・・・そのあとは・・・そのあとは・・・ウフフ! ヒ・ミ・ツ!!



to be continued...
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