神楽岡工作公司
大ちゃん紀行「東北編」
その1:ことはじめ / その2:中尊寺とみちのく民俗村 / その3:秋田行き


さてさて、『ことはじめ』にはおよそ旅の概要を記す事ができた。
我輩の考えでは建築的な勉強の場所とするのではなく、紀行であるから自分の感じた事を書こと思う。この巻では主に2つに絞って書こう。

1.中尊寺の旧覆堂について
2.みちのく民俗村の建物について である。



1.について興味を持ったのには理由があった。

我輩が小学年生の時、テレビの歴史番組で金色堂が取り上げられ、その時に覆堂(おおいどう)がRC造に建て変わった事を知った。「昭和38年(1963年)に金色堂を覆う建物が、コンクリート製で建てられた」という内容であったが、金色堂そのものに説明が多くさかれ、旧来の物がどうなったかと言う説明は略されていた様に覚えている。その為「では今まではどうなっていたのだろう」と思ったのである。

五間四方のこの“旧覆堂”は、古く“鞘堂(さやどう)”と言われており、我輩が小学校で習った言い方は“鞘堂”であった。1288年に鎌倉幕府により建てられたのだから、675年間覆い続けてきた事になる。当然修理等は幾多もあったであろうが、そもそも修理する気質がすごい。先人達は、新調する事を考えなかったのだろうか?

旧覆堂

旧覆堂



現在の覆堂


鞘堂自体は、それほど意味が無い。なぜなら金色堂が守られれば良いのだから。それを、あえて維持し残したのである。ここにこの建物が残される凄さがありそうだ。

堂内は照明など無い。それだけでも暗い森林の中に金色堂があった事を想像すると、金色の“華やかさ”よりもむしろ“鈍い荘厳さ”を思い描かざるを得なかった。今では“がらん”とした堂内で、かつて阿弥陀如来が座した部分に木柱(塔婆)が立っている。

ちなみに、金色堂の解体修理が昭和37年から6年かかりで行われている。これにあわせて、鞘堂が先行解体されたものである。鞘堂が解体された折、数日間、金色堂が建立当時同様に自然林の中に戻っていたという。これにも大変興味をひかれるものである。


追伸:中尊寺の鎮守として境内に白山神社がある。
これは能舞台を持つ、立派な神社であるがこの拝殿に茅の輪が取り付けられていた。
“茅の輪くぐり”で有名なそれである。我輩は、はじめて見た。


白山神社と茅の輪


2.みちのく民俗村の建物について、我輩は当初予定に無かった。

ただ北に行ってみようと思った時に、目標として思い出したに過ぎない。東北地方には、比較的多くの野外民俗博物施設が多い。

「みちのく民俗村」は、大阪府にある日本民家集落博物館に類似する施設と考えて差し障り無いであろう。建物としての民家のみならず、地域文化の民俗的見地を含めた施設の為、民族文化についても比較的力を入れて学習の機会を作っているようだ。ここで目に付いたのが構造的民家の形成もそうであるが、とりわけ気に入った物が他にある。江戸期の領地境(領境)を示す建物である。“藩所”と言われる物は、いわゆる関所でありその為に街道や間道に置かれる。では“その他の部分はどうなっているのかな”という事である。

南部領であった北上の地は、直下に伊達領と接しており、奥羽山脈の流れを西側に持つ。山並みを境にする事は通常であろうが、工作物的には堂や塚が使われた。この領境の場合、奥羽山脈の流れを持つ焼石連峰の駒ケ岳山頂にあった旧お駒堂より藩境にそって太平洋側へ約130キロごとのライン上に土を盛った塚を作ったそうである。

常であっても神秘性を持っているのが東北の山々である。この堂も多分にもれないが、宝形造り栗材の1間四方の小さな駒堂であるにも関わらず、背負っている重要性が面白い!

 旧お駒堂


維持費用の事等を含めて、取り扱いを両藩で決めていたようである。領境の開発時には、堂の取り扱いについて紛争まで起きているようだ。たった1間四方の華奢な建造物である。復元物ではあったが、面白い背景を持つ建物だと我輩は思う。現在、移築前の現地にはRC造で立っているそうだ。


その3
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